上の画像の浴恩園(よくおんえん)は,現在の東京都中央区築地の中央卸売市場跡地にあった,白河藩下屋敷の庭園です。
文政12年(1829)に起きた江戸の大火事で焼失しました。
当館所蔵の「浴恩園図並詩歌巻」をはじめ,現存しているいくつかの絵でその姿を確認することができます。
菅茶山は,文化12年(1815)にこの浴恩園を訪れ,老中首座だった白河藩主松平定信と白河藩士たちと交流しています。
その様子を紹介します。
(博物館ツイッターに掲載した内容を再編集したものです)
文化12年(1815),菅茶山は福山藩主阿部正精の命で前年より江戸に滞在していました。
菅茶山の日記によると,この日に白河藩儒者の広瀬台八(蒙斎(もうさい))が江戸藩邸にいた茶山を訪ね,松平定信の命を伝えました。
明後日の5日に江戸築地にあった白河藩下屋敷の庭園“浴恩園”に来てほしい。という内容でした。
定信は茶山を招いた招いた理由を,彼の日記『花月日記』に次のように記しています。
「林大学頭(林述斎)も,詩は茶山,文は広瀬蒙斎であると常々いっているので,ここに呼んで詩を詠んでもらいたいと思い招いた」
〔「東遊歴」当館蔵 文化12年(1815)2月3日 浴恩園への招待の記述箇所〕
菅茶山は浴恩園を訪れます。
白河藩士たちの案内で浴恩園を散策していきます。
浴恩園は海水を引き入れた“春風の池”と“秋風の池”を巡る回遊式の庭園で,四季の花木を愛でることができました。
〔「浴恩園図並詩歌巻「浴恩園図」」当館蔵〕
“春風の池”を巡った茶山一行は,海を見渡す“蓬瀛台(ほうえいだい)”で休息をとります。
下の画像の図は,そこから西側を眺めた図です。
〔同「蓬瀛台よりミわたす海づらのけしき」〕
下の画像の黄色い丸で囲んでいるところが蓬瀛台です。
〔同「浴恩園図」(部分)〕
蓬瀛台で休息した茶山たちは,秋風の池を巡り“春風館”へと入り,藩士たちと漢詩や和歌を詠みながら 松平定信を待ちました。
下の画像の黄色い丸で囲んでいるところが春風館です。
〔同「浴恩園図」(部分)〕
ついに、茶山は定信に対面します。
定信は次の和歌と手折った梅を茶山に贈ります。
「故郷を 思うもしばし なぐさめよ むめ(梅)の色香は よしあさくとも」
(意訳)「故郷を思って寂しい気持ちを,時期が早くて色と香りが浅いが,この梅で心をなぐさめて欲しい。」
茶山は漢詩で返します。
「雪後江城風剪々 蘆芽未サツ(“草”かんむりの下に“出”)梅猶晩 頼因侍史詠歌佳 早已名園春不浅」
(意訳)「江戸は雪の後で風が冷たく,梅の蕾も固いが,定信公の歌が素晴らしいので,ここには春の気配が感じられる」
下の画像の絵は、手折った梅「大明梅」の図です。
〔同 星野文良画「大明梅之図」当館蔵〕
春風館での宴を終えた茶山と定信は,舟で下の画像の左下の望嶽台(ぼうがくだい)へと向かいました。
そこから,右上に描かれる富士山を二人で眺めました。
〔同「浴恩園図」(部分)〕
浴恩園で松平定信からもらった梅は藩邸に持ち帰って接木され,帰郷する時、秋田藩の石田梧堂(ごどう)という人に預けられました。
文政元年(1818)4月,京都へ滞在していた茶山のもとに,倉敷の小野梅舎が鉢植えの梅を携えて訪ねてきました。
下の画像は,その時の日記「大和行日記」の記載箇所です。
〔「大和行日記」当館蔵 文政元年(1818)4月 小野梅舎来訪の記載箇所〕
京まで小野梅舎が梅を持参してくれたことに茶山は大変驚き,喜びました。
後に感謝の漢詩を贈っています。
その漢詩は,『黄葉夕陽村舎詩後編 巻八』に掲載されています。
ほとんど面識のない自分のために,江戸から京まで運んでくれた彼の気持ちをとてもありがたがっています。
〔『黄葉夕陽村舎詩後編 巻八』当館蔵 「小野梅舎に贈る詩并びに引」,当館蔵〕
京都まで届けられた鉢植えの梅は,どうなったのでしょうか?
文政3年(1820)の白河藩士田内月堂(主税)の手紙から,長旅のせいなのか枯れてしまったことが分かります。
茶山からそれを聞いた月堂は,再び接木にして茶山のもとに届けてくれました。
〔文政3年(1820)田内月堂から茶山宛の手紙〕
文政4年(1821)正月2日と4日の茶山の日記に「白川侯(松平定信)園中の梅、接木二株」,「白川公に賜る梅二株を植える」と記されています。
〔「廉塾日記」文政4年(1821)正月2日と4日の箇所〕
定信が手折った梅については,枯れてしまった後の経緯は不明です。
しかし、浴恩園に咲いていた梅(大明梅)は,確実に神辺の茶山のもとに届いていました。
文政3年(1820)に田内月堂が茶山に宛てた手紙には,松平定信付の役目となったため,浴恩園の中の海辺に引っ越したと報告されています。
「ともの浦に近くなった心地がする。」と記し,茶山先生を近くに感じると伝えています。
〔文政3年(1820)田内月堂から茶山宛の手紙〕
田内月堂が転居した場所は,茶山が休息した蓬瀛台(ほうえいだい)の端でした(下の画像(1)の朱線囲み箇所)。
月堂はそこからの景色を白河藩御用絵師の星野文良に描かせて送り,漢詩を一首依頼します(下の画像の(2)の朱線箇所)。
〔同 文政3年(1820)田内月堂から茶山宛の手紙〕
茶山に送られた画「海浜眺望図」に「酔月楼」とあるのが,月堂の家です。
〔上下画像ともに星野文良画「海浜眺望図」,当館蔵〕
月堂から漢詩を依頼された茶山は,文政7年(1824)に「田主税移居不崩岸(田主税 不崩岸に移居す)」という七言絶句を贈りました。
「不崩岸(くずれずのきし)」は,浴恩園に設けられた32の名勝の一つで,星野文良の絵にも描かれています。
「不崩岸」という名前は,『詩経』の小雅にある「天保」という詩に「月の恒(ゆみはり)の如く,日の升(のぼ)るが如く,南山の寿の如く,騫(か)けず崩れず,松柏の茂るが如く,爾(なんぢ)に承(つ)がざる無けん(如月之恒,如日之升,如南山之寿,不騫不崩,如松柏之茂,無不爾或承)」から来ています。
「南山」は中国にある“終南山”のことです。この詩は,終南山が崩れることがないのと同じように,長く続くことを願い祝福するものです。
茶山の詩の中にも「南山」という語があるのは,このことを踏まえています。
〔『黄葉夕陽村舎詩遺稿 巻四』「田内悦 不崩岸に移居す」〕
実は,この年に田内月堂から『浴恩園図並詩歌巻』を贈られています。
このことは,箱書きから分かります。
茶山のためだけに作られたものです!!
浴恩園での出来事を思い出したことでしょう。
〔「浴恩園図並詩歌巻」箱書〕
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