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年未詳7月22日付け児玉元良書状(河野八郎三郎宛て)

【サイズ】
本紙 25.5cm×39.2cm,軸装 101.3cm×41.4cm

【解 説】
〇中世の手紙には,書いた日付を記しても,年までは書かないことが圧倒的に多い。
しかし,関連する内容や人物に関する情報を合わせて考えることによって,手紙が書かれた年代の謎が解けることがある。

〇ここで紹介する手紙(書状)は,戦国大名毛利氏の奉行人(ぶぎょうにん)である児玉元良が河野八郎三郎に宛てたものである。内容は,次のとおり。

1.河野与三左衛門尉が戦死した。このことを児玉元良が帰陣の際に(当主である毛利輝元に)報告したところ,(毛利輝元は)「御書」(手紙)を児玉元良宛てにしたためるとともに,事情をくんで適切に計らうように児玉元良に対し命じた。

2.次に,「上意」から銭「千疋」(10,000文=10貫文。現在の約100万円)が支給された。受け取りなさい。

〇差出人の児玉元良は,永禄10年(1566)頃から「三郎右衛門尉」と名乗る。本文に登場する河野与三左衛門尉は,元亀2年(1571)正月九日に毛利元就から「与三左衛門尉」に任じられる人物(八郎太郎。実名不明)である。
これらのことから,この書状は元亀2(1571)以降に書かれたと推定される。

〇本文に示される「御書」とは,6月10日付けで児玉元良に宛てた毛利輝元書状(山口県文書館蔵「毛利家文庫 譜録 河野与三左衛門通知」所収第6号文書)のことで,輝元は「河野与三左衛門尉が戦死した。神妙である。(家族に)しっかりと事情を説明して諭すように」と,児玉元良に宛てたのであった。

〇本文中の「上意」とは,児玉元良に書状を書いて命じた当主毛利輝元よりも上の立場であること,戦死した人物を与三左衛門尉に任じたのが輝元の祖父毛利元就であったことから,元就その人と推定される。
毛利元就は,元亀2年(1571)6月14日に死去するので,元就が河野与三左衛門尉の死を悼み,見舞金を支給できたのはこれ以前に限られる。
したがって,この児玉元良書状は,元亀2年7月22日に書かれたと推定される。

〇児玉元良の帰陣後に河野与三左衛門尉の戦死の報告を受けた毛利輝元が,児玉元良宛てに書状をしたためたのが6月10日,そして児玉元良が河野八郎三郎宛てに手紙を書いたのが7月22日。この間,1か月半ほど期日を要しているのは,6月14日に毛利元就が死去したため,児玉元良が葬儀や死後の対応で多忙を極めたからであろう。

〇書状の宛先の河野八郎三郎は,天正3年(1575)に毛利輝元から加冠され,天正14年(1586)に与三右衛門尉(与三左衛門尉の誤写ヵ)に任じられる人物である。
与三左衛門尉の戦死の知らせと見舞金を受けていることと併せ,彼が与三左衛門尉の跡を継承したことは間違いなく,おそらく与三左衛門尉の弟又は従弟といった親族と思われる。

【参考文献】
『広島県立歴史博物館 研究紀要』第3号(1997年)

7月22日付け児玉元良書状(河野八郎三郎宛て),画像

7月22日付け児玉元良書状(河野八郎三郎宛て)の翻刻文