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頼春水書(らいしゅんすいしょ)

【サイズ】
31.7cm×59.4cm,一紙

【解 説】
〇菅茶山が所蔵していた頼春水
(らいしゅんすい)の書の拓本。隷書(れいしょ)で揮毫(きごう)された書を版木に起こし,写し取ったもの。

〇本資料に書かれる「凮漪(ふうい)」とは,風に立つさざ波のことを指す。

〇字を書いたのは,茶山の友人であった頼春水。春水は安芸国竹原の出身で,大坂に遊学した後,天明元年(1781)に広島藩儒となった。藩に仕える儒学者として,藩校での教育や,藩主の子息の教育,書物編纂(へんさん)などを行った。

〇春水は書家としても有名で,息子の頼山陽(らいさんよう)が記した「先府君春水先生行状」によると,文化8年(1811)の朝鮮通信使応接の際,日本側から「当今第一(とうこんだいいち)」の書家として名を挙げられたと言われる。

〇春水の日記「壬子作遊日記(じんしさくゆうにっき)」によると,春水は神辺の江原某という人物に「凮漪」の額を贈っており,江原は「風に立つさざ波」という文字の意味に合わせたのか,二,三十人の人出をかけて庭に池を作ったという。

〇このエピソードや,茶山の家に拓本という形で残されていることからも分かるように,春水の書は当時の人々にとって珍重されるものであった。

〇なお,菅家に伝わった資料を「黄葉夕陽文庫資料」といい,そのうちの5,369点が国の重要文化財「菅茶山関係資料」に指定されている。この資料も,「菅茶山関係資料」に含まれている。

【参考文献】
財団法人 頼山陽記念文化財団『“詩豪”頼春水~その生涯と書~』(2009年)
広島県立歴史博物館『芸備の文人たち―知の世界に遊ぶ―』(令和2年)

頼春水書「ふうい」画像