頼山陽は、安永九年(一七八〇)、大坂江戸堀に生まれました。父春水は安芸国竹原(広島県竹原市)出身の儒学者で、母梅し(*)(静子(しずこ))は大坂の儒者・飯岡義斎(いのおかぎさい)の娘で、和歌と書にすぐれた教養豊かな女性でした。(*「し」の文字は風へんに思)
天明元年(一七八一)、父春水が広島藩に儒者として登用されたため、一家は大坂から広島に移り住みます。杉ノ木小路(すぎのきしょうじ:頼山陽史跡資料館南側道路を江戸時代にはこう呼んでいました。)にあった屋敷には、十一歳から住み始めています。
少年時代の山陽は、学問に優れ、詩作にも才能を発揮しました。十四歳の時には「偶作(ぐうさく)」という詩をつくり、江戸にいた父春水を始めとする学者たちの注目を浴びました。
寛政九年(一七九七)、十八歳の山陽は江戸に遊学し、幕府の昌平坂(しょうへいざか)学問所で尾藤二洲(びとうじしゅう)らの教えを受けました。江戸遊学は一年で終わりを告げ、広島へ帰ることになりました。
寛政十一年(一七九九)、二十歳になった山陽は、広島藩医・御園道英(みそのどうえい)の娘淳子(じゅんこ)(十五歳)と結婚しました。翌十二年(一八〇〇) 九月、祖父惟清(ただすが)の弟伝五郎が亡くなり、竹原へ弔問(ちょうもん)に行く途中、山陽は行方をくらまします。しかしすぐに京都の潜伏先から連れ戻され、屋敷の座敷牢に幽閉されました。
山陽の脱藩は頼家にとっては大変な事件でした。罪は免れたものの、「廃嫡(はいちゃく)」(家を相続させないこと)となり、妻は離縁され、翌年に生まれた長男(聿庵(いつあん))は、山陽の母梅しによって養育されることになりました。
幽閉された山陽は、足かけ五年もの間、家の外を出ることも許されず、その間、もっぱら学問に没頭し、彼の代表的な著作である『日本外史(にほんがいし)』の草稿を書き上げました。
文化六年(一八〇九)、門外自由の身にはなったものの、身をもてあましていた山陽(三十歳)は、備後国神辺(現在の福山市神辺町)で廉塾(れんじゅく)を開いていた菅(かん)茶山(ちゃざん)(一七四八~一八二七)から塾の講師として迎えられます。しかし、かねてから「三都」(江戸・京都・大坂)で学び、名をあげたいという野心を抱いていた山陽は、自分の心情を茶山に切々と訴えます。結局、茶山も山陽が神辺を離れることを許し、山陽は廉塾に別れを告げ、京都に向けて出立することになりました。山陽、三十二歳の春のことでした。
京都に住みついた山陽は私塾を開く一方、『日本外史』の手直しや詩作に専念します。仕官することを望まず、自らの才覚で道を切り開いていきました。
文政元年(一八一八)三月、父春水の三回忌を終えた山陽は、九州に向けて出発し、一年にわたって周遊し、多くの詩を詠みました。中でも長崎から熊本に向かう途中に一時停泊した天草(あまくさ)富岡(とみおか)(現在の熊本県天草郡苓北(れいほく)町)で詠んだ「泊天草洋(あまくさなだにはくす)」は傑作とされ、山陽の代表作の一つになっています。
文政九年(一八二六)、四十七歳になった山陽は『日本外史』二十二巻を完成させ、翌年、松平定信にこれを献上しました。定信からは「穏当(おんとう)にして中道(ちゅうどう)をうる」(無理がなく理屈にかなっており、偏(かたよ)っていない)ものとの評価を受け、『日本外史』は天下に認められることになりました。
その後は、文政十三年(一八三〇)に聖徳太子から豊臣秀吉にいたるまでの歴史上の人物や出来事を題材にした詩集『日本(にほん)楽府(がふ)』を刊行し、政治経済を論じた『通議(つうぎ)』を著し(山陽の没後に出版)、また神武(じんむ)天皇から後陽成(ごようぜい)天皇までの時代について編年体で著した歴史書『日本政記(にほんせいき)』の執筆に精魂(せいこん)を傾けましたが、労咳(ろうがい)(=結核)を患(わずら)い、天保三年(一八三二)九月二十三日、五十三年の生涯を終えました。
~頼山陽の母・梅しと頼家の家庭生活~
頼梅し(名は静(しず)、静子(しずこ)とも)は、宝暦十年(一七六〇)八月二十九日に大坂で生まれました。父は飯岡義斎といい、町医者のかたわら儒学を教える「儒医(じゅい)」でした。少女時代から書や和歌を学び、上方の町人文化の中で育ちました。二十歳のとき、大坂江戸堀で塾を開いていた儒学者の頼春水と結婚し、翌年、長男久(ひさ)太郎(たろう)(のちの山陽)が生まれました。翌天明元年(一七八一)、夫春水が広島藩の儒官として登用されることになり、梅颸の人生は一変することになります。ちなみに、「すっぽらぽんのぽん」とは、広島藩の儒学者の妻として広島に行く娘にはなむけとして父義斎が贈った和歌に出てくる言葉です。
よの((世の))中に道より外ハ((は))何事も すつ((すっ)ほら(ぽら)ほんの(ぽんの)ほん(ぽん))にしておけ
広島藩に登用された春水は、翌年には藩主の世継・斉賢(なりかた)の侍読(じどく)(君主に学問を講義する人)となり、江戸に単身赴任することになったため、梅しと幼い久太郎は、しばらくの間大坂の実家に滞在することになりました。
天明五年(一七八五)、春水は帰藩することになり、春水一家は広島城下での生活を再開します。当時の住まいは西研屋町(にしとぎやちょう)にありました。それから間もなく、春水は再び江戸勤務となり、梅しは留守を預かることになります。以後、五十八年にわたって書き続けることになる日記を書き始めたのも、この時からです。
寛政元年(一七八九)六月、梅しは長女三穂(みほ)(十(とお)子)を出産します。それから梅しは、病弱な山陽を抱えながら、子育てに追われる日々を過ごすことになるのです。
同年十二月には、春水が杉ノ木小路の屋敷地を拝領し、以後、頼家はこの地で暮らしていくことになりました。
夫春水は儒家(じゅか)としての頼家の家祭(かさい)を確立し、梅しは主婦として一家の生活を支えていきました。日々の家事や育児はもちろん、家祭の御供(おそなえ)の支度(したく)を行い、来客の接待や親戚・友人たちとの交際もそつなくこなしていきました。
ここでは、儒家という独特なライフスタイルをもつ頼家の暮らしぶりと、さまざまな出来事に翻弄(ほんろう)されながらも奮闘し、それでも歌を詠み、旅を楽しんだ人生の先達(せんだつ)(=その道の先輩の意)梅しの姿を紹介します。