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資料館の沿革

頼山陽史跡資料館の沿革

 いつ どんなことが
平成27年(2015) 11月 頼山陽先生像が頼山陽記念文化財団により建立される。
平成27年(2015) 5月 広島県直営施設の「頼山陽史跡資料館」としてリニューアルオープンする。
平成7年(1995) 11月 11月3日に「頼山陽史跡資料館」として再開館
門と石畳、塀の一部と庭内のクロガネモチと手摺から移築したモニュメントが、昭和20年(1945)に原爆被災した被爆遺構である。
昭和58年(1983) 財団再建に伴い、顕彰会が施設管理にあたる。
昭和25年(1950) 顕彰会が施設を広島県に寄贈。同年には庭内のクロガネモチから芽が出る。
昭和24年(1949) 建物の修理・復旧
昭和23年(1948) 広島市により「原爆記念保存物」に指定される。
昭和20年(1945) 被爆により全焼し、収蔵品の大半は焼失した。現在のものは昭和33年(1958)に復元された。
昭和11年(1936) 昭和11年9月3日に国の史跡に指定される。
昭和10年(1935) 12月、財団法人頼山陽先生遺蹟顕彰会(現 財団法人 頼山陽記念文化財)により和風の鉄筋2階建ての資料館を建設し、「山陽記念館」として開館。
設計は佐藤功一博士(当時早稲田大学工学部教授)で、地上2階、和洋折衷様式の鉄筋コンクリート造り。
昭和6年(1931) 山陽没後百年祭が開かれ、昭和9年(1934) 顕彰会は頼家旧家を買い取り整備した。
昭和4年(1929) 財団法人頼山陽先生遺蹟顕彰会(のちの頼山陽記念文化財団)が設立される。
昭和2年(1927)

石柱が建立される。
徳富蘇峰筆「頼山陽先生日本外史著述宅趾)

 

国史跡「頼山陽居室」と庭園

 【1】国史跡「頼山陽居室」
 頼山陽史跡資料館の所在地は、頼山陽の父春水が、寛政元年(1789)年に広島藩から拝領した屋敷の跡地である。山陽はこの屋敷で青年期を過ごし、寛政12年(1800)に脱藩した後、この屋敷の離れの一室に幽閉された。この部屋が現在の「頼山陽居室」である。謹慎がとけるまでの5年間、山陽は著述に専念し、「日本外史」の草稿を執筆したといわれる。
 「頼山陽居室」は、昭和11年(1936)9月3日に国の史跡に指定されたが、被爆によって焼失した。現在の居室は、昭和33年(1958)に広島県が復元したものである。その後、平成3-4年(1991 - 1992)に保存修理工事を行い、現在に至っている。

【2】庭園
 頼山陽史跡資料館の建設にあたって整備された庭園は、中根金作(元大阪芸術大学学長)の遺作で、玄関ホール奥の中庭、和室奥の坪庭、和室表の庭の三庭から構成されている。
 中庭は竹類と景石を、坪庭はアオギリや芭蕉などの樹木と景石を主要テーマとしており、文人趣味の植物と地元産の良石を配することによって、文人の嗜好を庭園意匠として表現したものである。また、和室表の庭は茶庭風に蹲踞(つくばい:手水鉢)などを配しているが、完全な露地(茶庭)の形式をとっていない。これは、明・清代の中国で、抹茶に代わって主流になった葉茶が日本に伝来し、それが文人の趣味とも一致して、抹茶の茶道に対する煎茶道が創造されたことを踏まえたものである。
 このように資料館の庭園は、文人の趣味・嗜好を庭園意匠に表現した「文人庭」であり、資料館の建物と調和して、史跡のたたずまいにふさわしいものとなっている。今後、資料館や「頼山陽居室」と合わせたこの空間が、広島都心部のオアシスとして親しまれることと期待している。

「頼山陽と芸備の人々」から国史跡 頼山陽居室

~益田 与一著「頼山陽と芸備の人々」(1996)536ページから引用
●バスは遺蹟前に停車(バスによる案内に見立てて紹介)
 平和公園を離れて東に向かい、平和大橋を渡り終えると、市内電車宇品線軌道に出ます。左角がNHK広島放送局です。左折して軌道に沿って百メートルほど北進すると、軌道の向こう側に日本銀行広島支店の地上4階の建物が見えます。この建物の手前の道路へ進むために右折して軌道を超え、左に支店の外壁に沿って50メートルばかり東進します。バスは瓦を葺いた土塀と門構えの前に出て停車しました。ここが頼山陽先生の父上春水先生の浅野藩からの賜邸であり、山陽先生が少年時代から青年期を過ごした旧宅、またその子孫が長く住まれた屋敷跡です。(中略)

●正面入り口の石柱
 正面に向かって入口右側に一基の石柱が立っています。それは、明治・大正・昭和に活躍した文学者、徳富蘇峰筆の「頼山陽先生日本外史著述史跡」と読めます。この屋敷の意義を端的に表示したもので、石柱に原爆の損傷は認められますが、幸運にも生き残ったのです。
 邸内の昔からの建物は原爆の劫火に焼失しました。奥に残る防火造り2階建ての建物は、被爆後、逸早く設けられて、集会場所もない集会場所もない焦土で市民の文化活動に使用され、ずいぶん貢献しました。

●幽室の前に立つ
 正面を入ってすぐ右手に、家庭の庭とも見える広めの空間を前に、木造平屋建ての建物が見えます。この小さい建物が、山陽先生一生の大事件、無断出奔ののち、京都から連れ戻されて幽閉された「幽室」の建物です。広島が世に誇るべき山陽先生の文豪の出発点として、被爆後、旧図面によって復元した、史的に光輝ある「幽室」の跡です。
 さア(原文のまま)庭に入り、近寄ってご覧ください。一人の青年が文机を前に単座して書を読み、筆を執り、また思索するに十分とは言えぬまでも、まず諸用を達するに足るスペースであることをお解り頂けるだろう。(中略)

●昔を語る米搗(つ)き臼
 さて幽室から右に曲がって袖に当たる建物の窓を開いてご覧ください。そこには足搗きの「米搗き臼」があるのが見えます。
 萩の松下村塾を見学された方は覚えていらっしゃるでしょう。吉田松陰の村塾にも,これと同じ型の臼がありましたネ(原文のママ)。松陰は臼の上にあって、足で搗きながら、臼辺に並ぶ塾生に講義をされたのです。当時の武家の質素で堅実な生活ぶりがしのばれます。

参考資料

●頼山陽史跡資料館案内 「頼山陽と芸備の文化」
 平成7年(1995)11月3日 発行:財団法人頼山陽記念文化財団
●頼山陽と芸備の人々 
 平成8年(1996)8月 著者:益田 与一