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頼山陽関係資料

収蔵品・文化財

1 主な収蔵品 

 頼山陽史跡資料館では,頼山陽(1780~1832)とその一族にゆかりの書画や書簡,書籍や遺品など,所蔵品と寄託品を合わせて1万点以上の資料を収蔵しています。
 所蔵品のうち,平成12年(2000)に広島頼家から寄贈された資料は3000点以上に及び,同家の屋敷があった「杉ノ木小路(しょうじ)」[現在の資料館]の地名にちなんで,「杉ノ木資料」と呼ばれています。
 また,平成7年(1995)の資料館開館以来,一族の竹原頼家(春風館)から約6500点の資料が寄託されており,このほかにも広島県内などの所蔵家から500点以上の寄託を受けています。
■「東行手記巻」頼山陽筆(杉ノ木資料)
 寛政9年(1797)3~4月,当時18歳の頼山陽が幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)に遊学するため,広島から江戸へ向かう道中の旅日記(絵入り)。
■頼春水肖像画(杉ノ木資料)
 頼山陽の父春水(1746~1816)は,広島藩の儒学者として文教の振興に尽力するとともに,江戸在勤中には昌平黌の講義も担当するなど,当時の日本を代表する朱子学者
■『梅し日記』(杉ノ木資料)
 頼山陽の母静子[1760~1843,号は梅し※(ばいし)]の日記。26歳から84歳までの59年間分が伝来しており(一部欠筆あり),学者家庭の生活の様子が具体的にうかがえる貴重な資料です。天保4年(1833)以降の日記は未公開でしたが,現在財団の会報「雲か山か」で翻刻・紹介しています。
※「梅し」の「し」は,「風」+「思」という漢字です。
(「颱」という字の「台」を「思」に替えた字です。)
■蘇東坡画像(杉ノ木資料)
蘇東坡(蘇軾:1036~1101)は、中国北宋代の政治家で文豪。学識豊かな、節操を曲げぬ意志の強い人で、その文は宋代文学の最高峰に位置し、父蘇洵・弟蘇轍とともに唐宋八大家の一人に数えられています。山陽は日本の蘇東坡と評されることもあり、山陽自身も東坡に私淑していたといいます。この図は,文政9年(1926)12月15日、47歳の山陽が東坡を詠んだ自作の詩を記して、長男の聿庵に与えたものです。画の作者である遠坂文雍(1783~1852)は江戸の画家で、谷文晁に学んで人物・花鳥画を得意とした人です。

 2 国史跡 頼山陽居室

 寛政12年(1800),当時21歳の頼山陽が脱藩の罪によって幽閉された居室。幽閉期間は3年にも及びましたが,山陽はその間,代表作の歴史書『日本外史』の執筆に着手しました。この居室は昭和11年(1936)に国の史跡に指定されましたが,被爆によって焼失しました。現在の居室は,昭和33年(1958)に広島県が復原したものです。

3 所蔵資料の一部

(1) 頼山陽書状(梶山立斎宛)
 頼山陽が,頼家の執事梶山立斎に宛てて幽閉中の心情を訴えた長文の書状。山陽は「論語」を根本として経書・歴史書などのたくさんの書物を読みたいとして,具体的に書物の名をあげています。また,大都会に出て文章によって名を揚げたいと述べています。
(右半分)
頼山陽書状の1

(左半分)
頼山陽書状2

(2)頼山陽書状(頼春風宛)の別紙
 頼山陽が「日本外史」の構想を叔父の春風に相談した書状の別紙です。一行目にある「日本世史,十六氏世史家,十三世家,覇史,本朝覇史」は書名の候補です。「日本外史」という書名は春風が定めたともいわれています。
 国家などにより公式に編纂された歴史書を「正史」(例えば日本書記や吾妻鏡など)と呼ぶのとは異なり,外史とは私的に書かれたものです。
春風宛書状

(3) 「日本外史」(頼氏正本)
 源氏・平氏から徳川氏にいたるまでの武家の興亡を漢文で記した歴史書で,山陽の代表的著作です。刊行されたのは山陽の没後で,簡潔で読みやすいことから広く読まれ,幕末の志士たちに大きな影響を与えました。
 写真は,嘉永元年(1848)に山陽の3人の子(聿庵・支峯・三樹三郎)により刊行された「日本外史」です。
日本外史頼家正本

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