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インターネット版 古文書講座 NO.3

印刷用ページを表示する掲載日2016年2月26日

 ◇ 広島藩家中 山田家文書から ~藩主宗恒襲封直後の文書~ ◇

 広島藩家中山田家は,文禄年間頃から浅野家に仕えました。寛永9年(1632)に浅野長治が5万石を分知されて初代三次藩主となると,山田監物重次は本家から附人を命じられ,以後享保5年(1720)に三次藩が断絶するまで,代々同藩家老職を勤めています。
ここで紹介するのは,三次藩断絶後の宝暦3年(1753)の文書2点です。この前年には5代藩主浅野吉長が逝去し,その嫡子であった宗恒(むねつね)が襲封し6代藩主となっています。山田家は三次藩断絶後本藩家臣に戻されました。宝暦3年当時,山田頼母孝友は江戸詰の番頭(警護などを司る軍事部門の侍組の頭)でした。
 は,藩主交代にあたって番頭に提出させた起請文の写しです。(当館文書番号8810-20)
 は,藩主宗恒が帰国するにあたり,江戸在勤の責任者(年寄道家主馬)に次ぐ山田頼母ら重役に宛てた江戸留守中の法度写しです。ただし,文中の「松平上総介殿」とは宗恒嫡子の重晟(後の7代藩主)のことですが,重晟が上総介を名乗るのは宝暦8年なので,年代があわないのが疑問です。(当館文書番号8810-11)

藩主宗恒襲封直後の文書1

解読文1はこちらです。解読文1はこちらです

藩主宗恒襲封直後の文書2-1

 藩主宗恒襲封直後の文書2-2 藩主宗恒襲封直後の文書2-3

 藩主宗恒襲封直後の文書2-4

藩主宗恒襲封直後の文書2-5

藩主宗恒襲封直後の文書2-6
解読文2はこちらです。解読文2はこちらです

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