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広島平和記念公園には数多くの慰霊碑があり、その一つが「原爆の子の像」です。
修学旅行で広島を訪れた学生たちをはじめ、国内外から多くの人々が色鮮やかな千羽鶴をこの像にささげています。

原爆で犠牲になった子どもたち
1945年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。当時の広島には、居住者、軍人、通勤などでの入市者を含め、約35万人がいたと推計されています。
その日の早朝から行われていた建物疎開作業には、動員学徒9,111人が従事し、多くの若い命が犠牲になりました。
空襲対策として、国民学校3~6年(現在の小学校3~6年)の学童は集団疎開をしていました。親元を離れていた子どもたちの中は、原爆投下で家族を失い、帰る家も失って、戦後も過酷な現実に直面した人も少なくありませんでした。
佐々木禎子さん
「原爆の子の像」の建立のきっかけとなったのが、佐々木禎子さんです。
禎子さんは2歳のとき、爆心地から約1.6キロ離れた楠木町(広島市西区)の自宅で、家族と朝食中に被爆しました。
家族はいずれも軽傷で、禎子さん自身も爆風で吹き飛ばされたものの、外傷はありませんでした。
戦後、幟町小学校(広島市中区)に入学。幼いころからしっかり者で、6年生の運動会ではリレーのアンカーを務めるなど、運動神経に優れた少女でした。
そんな禎子さんを病が襲ったのは、被爆から10年後の12歳のとき。2歳の時に受けた原爆が原因の一つとなり、リンパ性白血病と診断され入院。投薬と輸血を重ねるつらい治療の中でも、「痛い」「苦しい」といった言葉を口にすることなく、懸命に病と闘いました。
禎子さんは「折り紙で鶴を千羽折ると願いがかなう」という言い伝えを知り、「早くよくなりたい」「生きたい」という強い願いを込めて折り鶴を折り続けました。
しかし願いかなわず、8か月の闘病の末、昭和30(1955)年10月25日、12年の短い生涯を閉じました。
子どもたちの運動と「原爆の子の像」
禎子さんの死後、同級生たちは、禎子さんをはじめ、原爆で亡くなった子どもたちを追悼する慰霊碑建立の運動を始めました。
日本全国から寄せられた募金により、禎子さんが亡くなってから約3年後の昭和33(1958)年5月5日、「原爆の子の像」が完成しました。
原爆の子の像 除幕式(所蔵/広島市公文書館)
像の下に置かれた石碑には、次の言葉が刻まれています。
これはぼくらの叫びです
これは私たちの祈りです
世界に平和を
きずくための

禎子さんの同級生による像の建立の話は、マンガ「原爆の子の像 六年竹組の仲間たち」で紹介されています。ぜひご覧ください。
外部リンク:原爆の子の像 六年竹組の仲間たち
折り鶴に託される平和の願い
禎子さんの物語は世界中に広がり、今も「原爆の子の像」には、国内外から折り鶴が捧げられています。
その数は毎年約1千万羽にものぼると言われ、世界中の平和へ祈りが一羽一羽の折り鶴に託されて広島に届けられているのではないでしょうか。
#未来へのおりづるキャンペーン
広島県とへいわ創造機構ひろしま(HOPe)では、核兵器廃絶への賛同を広げるため、折り鶴に平和への願いを込めて世界中に発信する、SNSキャンペーンを毎年実施しています。詳しくはこちらをご覧ください。
