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鞆の浦 常夜燈の夕焼け

千年の歴史をもつ港町「鞆の浦」その魅力とは?

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岡山県との県境・福山市に、日本遺産にも認定されている港町があることをご存知ですか?昔ながらの町並みを残す鞆の浦 (とものうら) は、江戸時代に建てられた伝統的な町家や港湾施設が一体となって現存する、全国でも珍しい港町です。

今回は、千年に渡り日本の行く末を見守ってきた鞆の浦の魅力を、その歴史とともにご紹介します。

鞆の浦ってどんな場所?

鞆の浦の眺望

かつて日本の大動脈を担っていた瀬戸内海の中央に位置している鞆の浦は、満ち潮と引き潮がぶつかる場所でもあったため、瀬戸内海を横断する船は一度ここで立ち止まり潮の流れが変わるのを待っていました。そしていつしか「潮待ちの港」と呼ばれるようになり、人と物が行き交う寄港地として栄えた歴史を持っています。

日本を見守ってきた千年の歴史

この港町ができたのは、神話の時代とも飛鳥・奈良時代とも言われています。730年の万葉集にはすでに登場しており、歌人・大伴旅人が大宰府から都へ帰る途中の鞆の浦で亡き妻をしのぶ気持ちを「むろの木の歌」に詠んでいます。交流拠点として多くの人や船を迎え入れていたこの港は、文化や経済の拠点として発展してきましたが、同時に、天下を取ろうとする武士たちの戦いの場でもありました。日本の行く末を見守ってきたのでしょうね。

鞆の浦にも幕府があった!?

1336年足利尊氏が小松寺 (鞆町後地) で上皇からの命令を受けて挙兵したことから、室町幕府は鞆ではじまったという説もあるそうです。その後、室町幕府最後の将軍足利義昭は織田信長から都を追放されますが、現在の大阪や和歌山などを転々とした後、1567年に拠点を鞆へ移します。ここで打倒信長を画策して、幕府再興を企んでいたとか。信長に対抗する主力たちが集まったこの勢力は「鞆幕府」とも呼ばれたそうです。

坂本龍馬と「いろは丸事件」

いろは丸を模した「平成いろは丸」

1867年、坂本龍馬が暗殺される半年前に紀州藩との間で「いろは丸事件」が勃発しました。海援隊が長崎港から大阪に向かっていたところ、鞆の浦沖で紀州藩の明光丸に衝突される事件です。今も現存する町屋「御舟宿いろは」で賠償交渉を行いますがまとまらず、長崎奉行所に場を移して土佐藩と紀州藩は継続して争ったそうです。この事件に関する資料は「いろは丸展示館」に保管されています。

歴史を彩る人物たちは、この鞆の浦でどんな采配を振るっていたのでしょうか。歴史好きには止まらない妄想です。江戸時代からつづく町並みも当時のまま残されていますので、ここで少しだけご紹介しましょう。

江戸時代のノスタルジックな雰囲気を残す町並み

鞆の町並み

細い路地には300年前の港町がそのままの姿で残され、町を散策しながら当時の雰囲気を感じることができます。特に、常夜燈 (じょうやとう)、波止 (はと)、雁木 (がんぎ)、焚場 (たでば)、船番所 (ふなばんしょ) 跡といった江戸時代後期から明治にかけて建造された港湾施設5つがまとまって保存されている港は、国内でも鞆の浦だけなんです。

澤村船具店のぶちょう

町中で見つけた澤村船具店のぶちょう (上半分を吊り上げる建具) は今も現役で使われているようです。特徴的な建具やデザインからも当時の面影が垣間見えますね。長い時間をかけて息づいた暮らしの風景を、この先もずっと残していきたいものです。

一本道の先に浮かぶ小さな島

玉津島

常夜燈から焚場のある地区を抜け、その先の平港へ出ると穏やかな水面が広がっています。海には「玉津島 (たまつしま)」と呼ばれる小さな島が浮かび山頂には海上安全・航行安全の守護神として玉津島神社が祀られているそうです。現在、島への立ち入りはできませんが、陸からも一本道のように波止を渡ることができますので、海から眺める鞆の浦の景観もぜひ楽しんでみてください。

歴史情緒あふれる鞆の浦を応援してみませんか?

ただ今、鞆の浦では「鞆・一口町方衆」応援プロジェクトを実施しています。

「鞆・一口町方衆」応援プロジェクト ホームページ

「鞆・一口町方衆」応援プロジェクト ともひとくちまちかたしゅうおうえんプロジェクト

鞆の優れた文化遺産や人々の暮らしが息づく町並み、風情を未来に伝えるため、寄附募集によってまちづくりを支援している。

これまで脈々と受け継がれてきた鞆の歴史や文化・伝統を未来に繋ぐために「町方衆」となって一緒に応援してみませんか?

千年の歴史が刻まれた魅力あふれる鞆の浦。この美しい港町をこれからも守っていきましょう。