徹底解剖!ひろしまラボ ロゴ
文字サイズ 拡大 標準
原爆ドーム

祝!広島の世界遺産登録25周年シリーズ 【後編】 原爆ドームの歴史

ひろしまを学ぶ |

広島県の世界遺産が今年で登録25周年を迎えます。25年の節目に、改めてその魅力や歴史を紐解いてみようというシリーズ後編は「原爆ドーム」です。

【前編】 嚴島神社の魅力の記事はこちら

もともとは、どんな建物だったの?

「原爆ドーム」と呼ばれるこの建物ですが、もともとは1915年 (大正4年) に「広島県物産陳列館」として、広島県産品を展示販売する施設でした。当時、近代工業が急速に発達していた広島では、市場の競争に耐えられる製品の開発や品質の向上にあわせて販路拡大のために拠点が必要だったようです。ここには広島県産だけでなく他府県からの産品や情報が集まっていたことから、博物館や美術館の役割も果たし、広島の文化振興にも大きく貢献していました。日本初のバウムクーヘンが販売されたのも (ちなみに、広島湾に浮かぶ「似島」で初めて焼かれたそう) この場所なんですって。

原爆ドーム 鳥瞰

その後「広島県立商品陳列所」「広島県産業奨励館」と改称され、戦後いつからともなく市民の間で「原爆ドーム」と呼ばれるようになったそうです。

誰がデザインしたの?

設計は、チェコの建築家ヤン・レツルです。1880年チェコ・ナホトに生まれ、プラハでヤン・コチェラ (オーストリアの建築家オットー・ワーグナーの弟子) に建築を学び1907年にドイツ人建築家の事務所スタッフとして来日しました。日本滞在中に、松島パークホテル、宮島ホテル (残念ながら当時の建物はどちらも現存していません) の設計も手掛けています。

川沿いから見る原爆ドーム

「広島県物産陳列館」として建設されたこの建物はレンガと鉄筋コンクリート造の3階建て、正面の中央階段室は5階建てドームというデザインです。当時の広島は木造2階建ての建物がほとんどでしたので、川辺に映えるモダンな西洋建築は異国情緒溢れ広島名所の一つだったようです。

保存のきっかけは一冊の日記

戦後、被爆した原爆ドームについては悲惨な思い出につながることから保存の考えに賛成する人ばかりではなかったため、保存か解体か、その方針はなかなか決定されませんでした。そんな中、当時1歳で被爆した楮山ヒロ子さんが残した日記の言葉「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世にうったえかけてくれるだろう…」に多くの人が心を打たれ、原爆ドーム保存への運動がはじまりました。しだいに保存の声が高まっていく中で1965年広島市にて原爆ドームの強度調査を実施、翌年に保存が決議されました。これを踏まえて保存工事の募金運動が開始され、被爆から22年後の1967年に第1回保存工事が行われました。

世界の平和拠点ひろしま

とうろう流し

その後、世界遺産リストへの登録を求めて市民運動が起こり1995年6月に国史跡に指定され、翌1996年の第20回世界遺産委員会メリダ会議にて原爆ドームが世界遺産に登録されました。被爆の痕跡を視覚的に残した世界で唯一の建物として、核兵器廃絶と世界の恒久平和を願い、今できることは何かを考えるきっかけを作っています。

国際平和拠点ひろしま ロゴマーク

国際平和拠点ひろしま こくさいへいわきょてんひろしま

人類初の原子爆弾による破壊から復興した地として、国際平和実現のために広島が果たすべき使命や役割を構想としてまとめている。

現在、広島県では「ひろしまイニシアティブ」を策定・推進しています。ちょっと聞き慣れない言葉ですが、核兵器のない平和な世界を実現するために掲げた「世界的行動の呼びかけ」です。

2030年の国際的合意をめざして核兵器に依存しない安全保障の探求や協働のためのプラットフォームを構築しています。

広島市 平和記念公園

ひろしまイニシアティブ

核兵器のない平和な世界を実現するために掲げた世界的行動の呼びかけ。

春をめざして、ただ今5回目の保存工事中

桜と原爆ドーム

原爆ドームが恒久平和を願い未来へ継承していくためにも、被爆当時の姿のままで保存することを大切にしています。しかし、原爆により破壊されてしまった建物は構造が弱くなっているため、現状を長く維持するためには保存工事が必要です。そのため、保存工事を行う際は、現状をできるだけ変えないように計画されて実施されているんですよ。

5回目の保存工事となる今回は、壁面のレンガの目地や窓枠の補修、風化して白くなった鋼材をさびに強い塗料で当時に近い色に塗装する作業が行われています。3月中旬ごろの工事完了が予定されていますので、春の桜と平和への祈りとともに改めて原爆ドームを眺めてみてはいかがでしょうか。