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酒蔵と蔵人

なぜ、広島が三大酒どころに? 発展を支えた先人の功績

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広島の西条は、京都の伏見、兵庫の灘と並んで「日本三大酒どころ」と言われています。日本酒は全国各地で造られていますが、その中からなぜ「広島」が選ばれているのでしょうか?

今回は、その鍵を担う二人の人物に注目しながら、歴史を振り返っていきましょう。

広島における酒造りの変遷をおさらい

西条の酒蔵 引きの画像

時を遡って江戸時代から物語をはじめましょう。当時、三津 (現在の東広島市安芸津町、西条から南南東へ14㎞) には、広島藩の米蔵 (集積港) がありました。

豊富な米と瀬戸内海の海運を活かし、現在の呉・安浦・安芸津・竹原などの沿岸部では、江戸末期から酒造りが盛んに行われていたという歴史を持っています。

「酒株の廃止」によって酒造免許が実質不要に

鎖国を終えた日本が明治時代に入ると、新政府は近代国家を目指して様々な改革を行います。その一つに明治4年 (1871年) に行われた酒株の廃止があります。

酒株とは、江戸幕府が酒造統制の基本政策として行った醸造業の免許制の一つ。酒株が廃止されたことによって、届け出さえあれば誰でも自由に酒造りができるようになったため、酒造りを始める人が全国で爆発的に増えました。

腐造に悩まされた酒造家たち

しかし、酒造経験がなく技術を持たない新規参入組が多かったこともあり、造り酒屋の件数こそ大幅に増えたものの、腐造 (※) に悩まされる酒造家も続出していました。

※「火落菌」と呼ばれる腐造乳酸菌の混入により、仕込んだ醪 (もろみ) や搾った酒の酸度が上昇したり、香りが悪くなったりするなど、酒質に変調をきたすこと。

酒質改善に挑み続けた広島の酒造家「三浦仙三郎」

三浦仙三郎
画像提供:乃美完次 氏

明治9年 (1876年) から三津の地で酒造りをはじめた三浦仙三郎も、新規参入組の一人でした。腐造に悩まされて廃業する酒造家が多かったなか、腐造に直面しながらもそれを克服すべく、酒造りを改善しようと熱心に研究を続けていきます。

水には「硬水」と「軟水」があった

仙三郎は書物の研究をしたり灘などの酒造りの先進地を直接訪問して学んだりするなかで、水には「硬水」と「軟水」があることを知ります。実は、軟水だと酒の醗酵が強くなりにくく腐りやすかったのです。

三津など瀬戸内海沿岸部の水質が軟水であったことから、仙三郎は軟水でも腐らない酒造方法を模索していきました。

改善の肝は「基本を大切に」

仙三郎は、これまでの勘に頼る酒造りから実測値による科学的な酒造りに移行します。また、清潔に保つための桶の洗い方や麹室の作り方、温度計や時計を使った計測を徹底するなど、基本に立ち返ることを大切にしながら改善に尽くしました。その結果、腐造を克服していったのです。

みずみずしい日本酒

のちに「軟水醸造法」と呼ばれる三浦仙三郎の酒造理論の柱は、「当たり前のことを当たり前にこなす」というものです。これは、現代からすれば実に平凡なことのように思えるかもしれません。しかし、基本が何かということすら見えにくかった当時において、百試千改の努力を重ね、腐造を克服した三浦仙三郎の「基本を大切に」というコロンブスの卵的な卓見は、現代にも通ずるところが大いにあります。

この一連の研究成果は、明治31年 (1898年) に「改醸法実践録」としてまとめられ、出版されます。当時の「みんなでより良くしよう」という気質も相まって、仙三郎もまた、20年以上にわたる自身の知見を同じように酒質改善に取り組む業界全体に共有したのです。

これにより、三津だけでなく広島県全体の酒質が向上していきました。

実は「改醸法実践録」を読むことができます!

現在、原本実物が確認されているのは国会図書館の1冊だけですが、デジタルアーカイブ から読むことができます。

また、広島杜氏組合が発行している改醸法実践録復刻版 (2,000円) もありますので、読んでみたい!という方はこちらもチェックしてみてくださいね。

お問合わせ

広島杜氏組合事務局 (東広島市安芸津支所内)0846-45-1623

三浦仙三郎 (みうらせんざぶろう) 略歴

弘化4年 (1847年) 現在の東広島市安芸津町 (三津) に生まれる。明治9年 (1876年) から酒造りを開始後、幾度となく悩まされた腐造を克服すべく研究を重ねた。自身が行った一連の研究内容と成果を「改醸法実践録」としてまとめるなど、広島の酒の礎を築いた「広島の酒の父」。

精米技術から酒造りを支えた「佐竹利市」

佐竹利市
画像提供:株式会社サタケ

腐造とは別に、実はもう一つ解決しなければならない課題がありました。米の「精米方法」です。それを解決する立役者として、佐竹利市が登場します。

不足していた動力源

当時の主な動力は水車でしたが、広島にはその源となる高低差の大きな河川がなく、原料となる米を精米するには人力に頼らざるを得ませんでした。

吟醸酒の誕生を支えた精米機

明治28年 (1895年) 33歳の利市は、念願の精米機発明に着手します。そして翌年、日本初となる動力式精米機を生み出しました。

動力式精米機の仕組みは?というと、第1号は米をこすり合わせてヌカを取るもの。食用としては十分な精米だったのですが、酒造用としてはもっと白くしたい。

精米機の画像
4連唐臼搗精機 (画像提供:株式会社サタケ)

当時、西条の酒造をけん引していた木村和平 (現在の賀茂鶴酒造の創業者) からのオーダーもあり、酒造用としての精米機開発に向けて改良を重ねます。

より良い酒造りのために試行錯誤した結果、明治41年 (1908年) 、砥石で米を削る仕組みを採用した「研削式精米機」が完成。当時としては驚異的な数値である「精米歩合60%」を実現しました。

この技術によって精米の効率化はもちろんのこと、酒質も向上し、現在につながる「吟醸酒」の誕生に大きく寄与しました。

佐竹利市 (さたけりいち) 略歴

文久3年 (1863年) 現在の東広島市西条に生まれる。幼いころから数学の才能に秀でていた利市は、農業の傍ら地租改正のための土地測量や地積計算を任された。その後、鉄道工事の主任技術者を経て、明治28年 (1895年) 33歳の時に念願の精米機発明に着手。翌年、日本初となる動力式精米機を生み出した。

苦難を乗り越えて誕生した「広島の酒」

広島の日本酒

様々な課題があり腐造に悩まされていた広島の酒造りでしたが、みんなで力を合わせて苦難を乗り越え、広島らしい酒造りを目指して努力を重ねた結果、明治40年 (1907年) に東京で開催された第一回全国清酒品評会では、酒どころとして先行していた灘と伏見を抑え、広島の酒が優等賞1等2等を独占。以降の品評会でも広島の躍進はつづき、「日本三大酒どころ」としての名声を轟かせたのでした。

その後も、醸造技師として醸造試験場に赴任してきた橋爪陽 (はしづめきよし) を中心に、酒米の育成や醸造技術のさらなる改良、杜氏の養成が進められて現在の発展に至ります。

広島の酒が全国へ

山陽鉄道の発展と共に県外への輸送が船から鉄道へ移行していくと、酒造りの中心地も沿岸部から西条へと移っていきました。そして西条を拠点に広島の酒が全国へと広がっていったのです。

チャレンジと利他の精神こそ広島の力!

日本酒造りにおいて、広島の地に特別秀でた条件があったわけではありません。むしろ、乗り越えなければならない課題の方が多かったように思えます。

しかし、課題があるから諦めるのではなく、弱みを強みへ変えていくチャレンジ精神と、それぞれが得た知見をみんなで共有して「一緒により良くしよう」という精神こそ、日本三大酒どころと言われるまでに成長した秘訣かもしれません。私たちも受け継いでいきたい、これぞ広島の力!ですね。