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幕末に北方領土を探査した福山の偉人寺地強平に関する講演会(令和3年1月)が開催されました。

印刷用ページを表示する掲載日2021年8月20日

 令和3年1月27日(水曜日)に,福山市生涯学習プラザで,「福山の偉人 寺地強平~医療・蝦夷地探査など多彩な業績から~」と題した講演会がありました。

 講師は,広島県北方領土問題教育者会議の会員で,福山市歴史資料室職員の柏紀雄さんでした。

kashiwa   柏紀雄 講師

 現在の北方領土問題や新型コロナウイルス感染症にもつながる内容でもあり,参加者約30名にも大変好評でした。

 北方領土問題は,広島県の人々にとって身近な問題ではないかもしれませんが,地元ゆかりの人の事績を知ってもらい,身近な問題として捉えてもらうきっかけになれば幸いです。

terachikyouhei  寺地強平肖像画(福山誠之館同窓会所蔵)

 ○ 講演概要

1 はじめに

2 寺地強平の経歴

3 古来から最も恐れられた疫病→天然痘←福山で初めて種痘を実施

4 安政2年、藩校福山誠之館開講・・・洋学寮教授となる

5 江戸時代後期の蝦夷地に関する主な動き

6 寺地強平から見た東蝦夷

7 明治2年,藩立病院兼医学校である同仁館の病院長兼教授となる

8 明治4年,寺地強平が『養生論』を著す

9 明治4年,廃藩置県により同仁館が廃館となる

 

fukuyamaigaku「福山医学黎明の地」石碑

 ○ 要旨

 寺地強平に関して、幕末期の2つの大きな出来事について話がありました。

 1つは,当時死の病として恐れられていた天然痘の種痘を行い,後に同仁館の院長兼教授となり,福山の医学の礎を築いたこと。もう1つは,ロシアが日本に通商と国境の策定を迫ったことです。

 天然痘は,世界的中で流行した疫病で,多数の死者が出ていました。寺地は,江戸で同門であった緒方洪庵から天然痘痘苗(ワクチン)を分けてもらい,福山地方において反対を排して種痘を実施し多くの人の命を救いました。当時としては,画期的な取組であったことがうかがわれます。

 列強国への対応,とくにロシアについては,当時の老中首座であった阿部正弘(福山藩主)の命を受け二度の蝦夷探査が行われています。

 安政元年(1854年)12月21日(旧暦)に,日露和親条約が締結され,国境が定められたことを受け,蝦夷地を探査することになりました。寺地は安政3年,福山藩士の石川和介(後の関藤藤陰)らとともに東蝦夷地を探査し,国後島,択捉島にまで足を踏み入れています。

 幕府への報告書である石川和介の「観国録」には,地勢,土質,気候など,自然環境を把握し,蝦夷地を開拓・経営する上での貴重な資料が収録されています。寺地の「蝦夷紀行」には,自身が見聞した事柄を子細に日記風に記録されており,「観国録」を補う貴重な資料といえます。

(ホームページ作成協力:広島県北方領土問題教育者会議 安井誠一さん,同 松木鶴美さん, 独立行政法人北方領土問題対策協会広島県推進委員 金山泰正さん)

 

sakuseikyouryoku(左から安井さん,松木さん,柏講師,金山推進委員)

 

 

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