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令和2年度 企画展・部門展

秋の展示 「芸備の文人たち -知の世界に遊ぶ-」

 この展示会の内容について,特に注目の資料をピックアップして,少しだけ早く御紹介します。

展示の概要

R2 春展ポスター
ポスター (PDFファイル)(1.72MB) 

 この展示は「文人」と言われた人々を扱ったものです。
 上のポスターには,食事をしながら会話を楽しんだり,書や絵を作っている人たちをのせていますが,彼らこそ「文人」と言われた人々です。

 日本では,江戸時代の中頃(18世紀~)になると,こうした「文人」と言われる人々が多く登場するようになります。
 彼らは儒学(じゅがく)や歴史などの高度な知識や教養を背景に,詩・書・画など様々な文化的な活動を行い,文化の担い手として重要な位置を占めていました。

 今回の展示では,特に広島・福山など芸備地方の「文人」たちを中心に,彼らの活動や交流を紹介します。
 また,「文人」という生き方を知ることは,現代を生きる私たちにとっても何かしらのヒントを与えてくれると思います。

 この展示を通して,「文人」という存在について知っていただく機会になれば幸いです。

 

展示構成

序章 文人とは何か?

 「文人」とは,中国の宋(10~13世紀)の時代に確立した概念です。「文人」は中国だけでなく,朝鮮,そして日本にも登場しました。
 「文人」の定義は国によっても様々で,定義することは難しいのですが,あえて言うならば,儒学や歴史などの高度な教養を持つ「知識人」であり,様々な文化的な活動を行った「文化人」であった人々と言えるでしょう。
 この章では,中国宋の文人「蘇東坡(そとうば)(蘇軾(そしょく))」と,日本の文人「菅茶山(かんちゃざん)」を取り上げ,「文人とは何か?」という問題に迫っていきます。
 

注目の資料1

 ここで紹介する資料は,中国の代表的な文人「蘇東坡」に関わるものです。
 蘇東坡は今から900~1000年ほど前の人で,当時中国の王朝である北宋で活躍した政治家・文化人で,父蘇洵(そじゅん)・弟蘇轍(そてつ)とともに「唐宋八大家(とうそうはちたいか)」の一人に数えられます。

 蘇東坡は,文人としては詩・書・画のいずれにも優れ,後世の文人のあこがれとされていました。
 下の二つの資料は,蘇東坡が左遷されているときに詠んだ「後赤壁賦」に関わるものです。


序章画像1 序章画像2
(左)浦上春琴画「赤壁後遊図」(当館蔵)

 岡山出身の文人画家,浦上春琴(うらがみしゅんきん)が,蘇東坡2度目の赤壁舟遊を題材に描いた作品です。
 舟遊の様子は,蘇東坡の「後赤壁賦」によって描写されており,本作品も「後赤壁賦」にある「月白風清(月白く風清し)」という情景を柔らかな筆致で巧みに表現しています。


(右)頼山陽書「題後赤壁図」(当館蔵)

 広島出身の文人頼山陽(らいさんよう)が,蘇東坡の2度目の赤壁舟遊を描いた画を観て詠んだ詩です。
 「後赤壁賦」で語られる風流な情景は,多くの文人を引き付け,本資料を含め,それに関わる詩や画が多く作られていました。
 

第1章 芸備の多才な文人たち

第1節 儒学者たちの事績と作品

 日本では,江戸時代半ば(18世紀~)から,「文人」と言われる人々が数多く登場するようになります。
 その中でも,儒学を学んだ人々,すなわち「儒学者」は,その多くが「文人」としての面を持っていたといえるでしょう。彼らは一面では「学者」として活動を行い,一方では「文人」として活動を行っていました。
 この節では,広島・福山に縁の深い儒学者を取り上げ,彼らの「学者」としての事績と「文人」としての作品を御紹介します。
 

注目の資料2

 下の書は広島藩に仕えた儒学者,頼杏坪(らいきょうへい)の残したものです。
 頼杏坪は,安芸国竹原(現在の竹原市)出身の儒学者で,江戸の服部栗斎(はっとりりつさい)や鴨方の西山拙斎(にしやませっさい)に学び,天明6年(1786)に広島藩に仕えました。
 藩の編纂事業などに関わり,兄の頼春水(らいしゅんすい)とともに『芸備孝義伝』の編纂事業を行っています。その他,儒学者としてだけでなく,三次郡の代官を務めるなど政治家としても活躍した人物です。


春の展示画像2
 頼杏坪書「意釣舟」(当館蔵)
 本資料は,杏坪が神辺(現在の福山市神辺町)の儒学者菅茶山に贈った額入りの書です。「意釣舟(つりぶねをおもう)」とは,茶山の居宅が用水路にまたがっていることに由来するとされています。
 また,「釣舟」という表現は高い身分にはないが,自由に生きている人々のことを指していると考えられます。

 頼杏坪は広島藩に仕えた人物,つまり俗世のなかで生きた人物でした。一方の菅茶山は主として在野の人として生きた人物です。
 この「意釣舟」の書からは,
俗世から距離をとって生きている茶山へのあこがれが見えてくるようです。

 
 

第2節 文人大名の文芸

 日本で「文人」とされる人は儒学者だけではありません。例えばお殿様,すなわち「大名」のなかにも「文人大名」と言われる人々がいます。
 彼らは藩主として政治に携わりながら,一方で高い教養を修めた「知識人」でもあり,様々な文化活動を行った「文化人」でもありました。
 この節では,広島・福山の大名たちが作った書画作品を紹介します。そして,これらの大名と学者たちとのつながりが見える資料も紹介していきます。
 

注目の資料3

 下の絵は,福山藩主を務めた阿部正倫(あべまさとも)が描いたものです。
 阿部正倫は,寺社奉行や老中など幕府の要職を務め,天明6年(1786)には藩校弘道館(現在の広島県立福山誠之館高等学校)を創設し,藩士の教育を奨励した人物です。
 
 福山藩は譜代の大名家であり,幕府の要職を務めることが多かったため,江戸との往来がはげしく,江戸や上方の文化の移入が早かったといわれています。
 そのためか,藩主や家臣のなかには絵画が巧みなものが多く,特に4代藩主阿部正倫や5代藩主の阿部正精(あべまさきよ)は,絵画に非凡な才能を発揮しています。


春の展示画像3-左 春の展示画像3-中 春の展示画像3-右
 阿部正倫画「黄石公張良図」(三幅対)(当館寄託・個人蔵)
 

 秦の隠士黄石公(こうせきこう)が,橋で出会った張良(ちょうりょう)(紀元前251-186)にわざと落とした履物を拾わせ,後に太公望(たいこうぼう)の兵法書を授けたという故事を描いています。
 この絵に出てくる張良(履物を持っている若者)は,秦から漢の時代に活躍した軍師です。漢の皇帝となった劉邦(りゅうほう)に仕え,建国の立役者になりました。
 なお,この時の張良は,劉邦に仕える以前で,秦の始皇帝(しこうてい)の暗殺に失敗し,身を隠しているときでした。

 また,絵に出てくるもう一人の人物,黄石公(馬に乗った老人)は,わざと履物を投げ,それを拾わせるという無礼な態度をとり張良を試しています。
 高い才能を持ちながら,秦を倒すために暗殺という手段をとってしまった張良に対し,大業をあげるには忍耐こそ必要なのだということを伝えているとされます。

 文句を言わずに履物を拾ってきた張良は黄石公に見込まれ,太公望の兵法を授けられます。その後,張良は漢の初代皇帝になる劉邦に仕え,中国の歴史のなかでも屈指の軍師として活躍していきます。

 正倫がこの絵を描いた理由は定かではありませんが,もしかすると自らの戒めとしてこの絵を描いたのかもしれません。

 

第2章 文人たちの交遊-知的な交流の世界-

 文人たちにとって,交わり遊ぶこと,すなわち「交遊」はとても大事なことでした。
 彼らは精神的な共同体を求め,時に集まり,皆で詩・書・画を作り,あるいは学問をはじめ様々なことを語り合い,互いに楽しむことがあったのです。
 文人たちの交遊は,個人レベルのものから,集団や団体で行うもの,時には国を越えた交遊というものもあります。
 この章では,芸備の文人たちのもとに集まった様々な資料から,「文人たちの交遊」というテーマについて考えていきます。
 

注目の資料4

 「文人」たちは交遊をするなかで,ものを贈り,また贈られるといったことがありました。
 下の二つの絵は,江戸の画人,谷文晁(たにぶんちょう)が描いたもので,左は太公望(たいこうぼう)という古代中国の人物,右は司馬光(しばこう)という中国宋代の人物が描かれています。
 太公望の絵は故郷の神辺で弟子の教育につくした儒学者菅茶山に,司馬光の絵は広島藩に仕え,藩儒として活躍した頼春水に,それぞれ70歳のお祝いとして贈られたものです。
 

 はんけい 温公兄弟
(左)谷文晁画 「磻磎跪餌図(はんけいきじず)」(当館蔵)
(右)谷文晁画「温公兄弟対酌図(おんこうきょうだいたいしゃくず)」(個人蔵)

 左の絵に描かれている太公望は,「釣り人」の代名詞になっているように,世に見いだされるまでは長らく在野の人として生きた人物。
  一方で,右の絵にある司馬光は,幼少のころから神童と呼ばれ,後に宰相(さいしょう)になるなど政治家として国政に関わった人物でした。

 それでは,絵を贈られた二人はどうだったかというと,菅茶山は50代半ばまで在野で,老年になり福山藩に登用された人物。
 一方の頼春水は,幼少期から神童と称され,後に30代半ばで広島藩に登用され,藩の教育政策に深く関わった人物でした。

 こうして見てみると,この二つの絵は,茶山と春水の生きてきた姿が,太公望と司馬光という二人の人物になぞらえて表現されていることが分かります。

 その他,線の描き方を一つをとってみても,少し流したように描かれる 「磻磎跪餌図」と,一本一本細かく描かれる「温公兄弟対酌図」は,それぞれ贈られた人物の性格を表しているようにも見え,非常に興味深い資料といえます。
 

終章 瀬戸内の発展と芸備の文人

 ここまで,「文人」と言われる人々の活動や交遊について見てきました。
 最後にこの章では,江戸時代の瀬戸内地域に関わる資料を紹介し,「芸備」という地域は「文人」にとってどのような役割を果たしたのか?ということに迫っていきます。

 江戸時代,芸備地方のなかでも特に瀬戸内周辺の地域は,輸送や交通の中心地として発展していました。
 この状況は,そこに住む人々に経済的な余裕を与え,なかには儒学などの教育を受け,高度な教養を持った人々も登場するようになります。

 ちなみに,今回の展示で登場した芸備の文人たちは,多くが瀬戸内周辺の地域の出身です。
 江戸時代の瀬戸内周辺の発展と芸備の文人たちの登場は深い関係にあったのです。

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