ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

通史展示室「瀬戸内の歴史をたどる」

通史展示室

 瀬戸内海は古くから九州と近畿地方とを結ぶ文化の大動脈として、日本列島の歴史に重要な役割を果たしてきました。
 この展示室では、「交通・交易」「民衆生活」という2つの視点から瀬戸内地域の歴史をたどります。

瀬戸内海の誕生

 今から1万年ほど前、氷河期が終わり完新世になると、地球は温暖化し氷河の大部分が溶けて海水面が上昇した。これによって大陸と陸続きであった日本は次第に孤島化し、それまで陸地であった瀬戸内海にも海水が流入し始めた。
 瀬戸内海の沿岸部や島々には旧石器時代の遺跡が点在し、海底からは旧石器時代人が狩りの対象としたナウマンゾウやニホンムカシジカなどの動物化石が引き揚げられることがある。

原始の民衆生活と交通・交易

 旧石器時代や縄文時代の人々は、狩猟・採集の移動生活を行っていた。弥生時代になると稲作が開始され、人々は定住してムラを作り、やがて小さなクニが生まれた。
 このような時代の変化とともに、流通・交易も活発に行われた。石器の素材が原産地から遠く離れた集落に運ばれ、弥生時代には大陸から稲作や金属器がもたらされるなど、瀬戸内の海上交通も盛んになった。

古代の民衆生活と交通・交易

 巨大な墳墓築造に象徴される古墳時代は、農工具などの進歩によって農業生産力が飛躍的に向上した時代でもあった。古墳時代に、各豪族の支配下にあった農民は、飛鳥時代から奈良時代には律令国家の成立によって公民となり、多くの負担を課せられた。
 また、古墳時代から奈良・平安時代になると、瀬戸内海地域は畿内と九州を結ぶ交通路として重要な役割を果たすようになった。(写真下:古墳出土の銅鏡と馬具

銅鏡と馬具

中世の民衆生活と交通・交易

 荘園公領制が基盤となっていた中世の村では、農民は領主の収奪に苦しんだが、農業生産力の進展に伴って余剰生産物も増えて次第に生活が向上し、年貢の軽減や免除の要求が行われた。
 一方、町でも商工業者が台頭し、民衆が歴史の表舞台に登場してきた。交通交易の面では、千石積みを超す大型船が造られ、海上交通が一層発達した。中国や朝鮮とも盛んに交易を行い、貨幣経済が大きく進展した。

近世の民衆生活と交通・交易

 芸備地方では、三原・広島・福山の城下町に商工業者が集められ、兵農分離政策が押し進められ、新たな身分制社会が形成された。
 民衆はさまざまな規制にもかかわらず、農業技術の改良や新田開発によって生産力を向上させ、貨幣経済が次第に活発化した。また、西廻り航路の開発や山陽道の整備によって、全国的な規模で人や物資の交流が盛んになった。(写真下:弁財船模型

弁財船模型

近代・現代の民衆生活と交通・交易

 明治新政府は、近代国家成立に向け富国強兵と殖産興業を進め、国民生活も急変した。瀬戸内における鉄道・道路・港湾などの交通体系の整備は産業を発展させ、人々の生活を高度化・多様化させた。
 やがて経済不況や戦時体制のなか、人々は苦しい生活を強いられた。第2次世界大戦後、民主化が進むなか、急速な工業化・都市化により、くらしは豊かになったが、環境問題や社会問題なども生じている。