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草戸千軒2展示室「出土品は語る」

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 30数年にわたる「草戸千軒」の発掘調査によって出土した遺物や、関連資料を系統的に並べることにより、調査研究の成果に対する理解を一層深めることができます。
 また、全国の主要な中世遺跡を紹介しており、中世考古学の現状を理解することができます。

調査研究の歩み

 江戸時代中期の地誌『備陽六郡志』(びようろくぐんし)に記された伝説の町「草戸千軒」は、大正末年に始まる芦田川の改修工事によって発見された。改修工事中の昭和5年(1930)に中州の土砂を掘削して堤防を築き始めたところ、五輪塔(ごりんとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)とともに陶磁器や古銭などが多数出土した。このことは郷土史家によって注目されたが、このときは学術調査が実施されるまでには至らず、遺跡は再び埋もれてしまった。川底に埋もれた遺跡が再び日の目を見ることになったのは昭和36・37年(1961・1962)のことで、福山市教育委員会によって学術的な発掘調査が行われた。昭和40年(1965)の第3次調査では、遺跡西方の明王院に向かう石敷道路や鍛冶遺構が検出され、「川底に埋もれた中世の町」として学界の注目を浴びることになった。こうして遺跡の重要性が確認され、本格的な調査計画が立てられようとしていた矢先の昭和42年(1967)、芦田川が一級河川に昇格し、遺跡周辺の護岸が集中豪雨によって大きな被害を受けたのに伴い、建設省は新たな河川改修計画を立案し、遺跡の消滅が予想されるに至った。このため広島県教育委員会は保存対策に取り組むことになり、建設省と協議を重ねた。これとは別に、遺跡が中州にあるため自然流失による破壊も進んでおり、昭和43年(1968)の高水敷護岸工事に先立つ調査を契機に、翌44年から国庫補助を受けて緊急調査を実施して記録保存を図ることになった。昭和46年(1971)には新たに河口堰建設計画が発表され、調査不能という最悪の事態が予想されるに至った。そこで県教育委員会は建設省と再度協議を重ねるとともに、遺跡の重要性にかんがみ、遺跡包蔵中州を年次計画で完掘しようとする本格的な調査計画を立案し、昭和48年(1973)現地の福山市に草戸千軒町遺跡調査所(のちの調査研究所)を設置して調査を開始した。その結果、中世の瀬戸内に発達した都市民衆の生活文化が次第に明らかになってきた。

食物

 中世には米を常食とする習慣がかなり普及し、三度食も広まってきた。また、日常食品の種類も増え、調理法では生物・汁物・煮物・焼物など日本料理の基本ができ上がった。草戸千軒ではコメ・ムギ・ウリ・ウメ・モモ・クリなどの種子類、ウシ・ウマ・イノシシなどの獣や、タイ・スズキなどの魚の骨、およびヤマトシジミ・ハマグリ・アサリなどの貝殻が土坑(どこう)や井戸・溝・池などから多量に出土している。木簡(もっかん)の中にも白米・大麦・荒麦・精麦・小豆・黒海布(くろめ)などの食品名の記されたものがある。なお、中世にも民衆の間では肉食が行われていたことが、遺跡から出土した獣骨の検討の結果明らかになってきた。