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ミニ展示 中世文書を読む ⑾

テーマ「中世文書を読む(11) 史料から見た草戸千軒」

 3月20日(金曜日・祝日)~6月7日(日曜日)に開催予定のミニ展示「中世文書を読む(11) 史料から見た草戸千軒」を,ホームページで公開します。

 
 2-1 ミニ展示画像 西大寺末寺帳(複製資料,当館蔵)

今回の『中世文書を読む』は,「草戸千軒」について記した文書を紹介し,解読します。中世文書から「草戸千軒」のどんなことが分かるのでしょうか?

史料1は,奈良の西大寺の末寺のリストです。この史料の奥(最後)に「明徳2年9月28日これを書き改めおわんぬ」と記してあり,明徳2年(1391)段階の西大寺の末寺を,この時に確認したことが知られます。西大寺末寺帳

明徳2年(1391)頃,備後国の「クサイツ 草土」に,西大寺の末寺の「常福寺」があったことが分かるよ。常福寺は,今の明王院の前身の寺院。つまり,今の明王院のある,現在の福山市草戸町の辺りは,14世紀の末期には「クサイツ 草土」と呼ばれていたんだ! 常福寺五重塔の建立については,こちらを御覧ください。伏鉢のページはこちらをクリック!

「クサイツ」を漢字で書くと「草出」。「出」という字は古くは「いづ」と読みました。草木が次第に枝を張って上に延び出て茂る形から,「出」という字ができました。文字どおり,「草木が茂る所」だったので,「くさいづ」と呼ばれ「草出」と記されたのではないでしょうか。

常福寺の本堂は元応3年(1321)の建立。五重塔は貞和4年(1348)に「わずかばかりの寄付」が集められて建てられた。「クサイヅ 草土」に住む人々や訪れる人人々が,仏様の加護を求めて寄付したのでしょうね。本堂や五重塔の建つ常福寺が宗教活動を営めるくらい,「クサイツ 草土」にはたくさんの人が住み,訪れる「まち」になっていたんでしょうね。

史料2は,文明17年(1485)に尾道の権現堂(今の千光寺)の大進というお坊さんが熊野那智大社へ引率し案内する「旦那」たちを記したものです。「草出」の「津」(港)には,かつて神上寺があったようです。しかし,文明17年には寺は無くなり「跡」になっています。史料2 尾道権現堂檀那引注文

神上寺は無くなったけど,寺跡の裏側の信者たちは権現堂の大進に引率されてお参りした。神上寺が草出の津にあったときには,神上寺の引率で熊野詣をしたのよ。史料1の常福寺がクサイヅ 草土にあったことと合わせて考えると,草出の海側が津,山側が草土と推定されるよ!史料2を,今の言葉に直したら…

15世紀後半には,常福寺の本寺の西大寺や,神上寺・尾道権現堂が先達を務めた熊野那智大社など,近畿地方の大寺社が自分たちの信仰を広めようと草出の草土や津で活動していたことが推定される。草出は,このような大寺社が宗教活動を盛んにするのにふさわしい所だったのよ。

史料3は,福山市鞆町の安国寺の本尊の内部から見つかった資料です。一緒に見つかったお経などから,この仏像が文永11年(1274)に安国寺の前身の金宝寺の本尊として造られたことや,史料3がそのとき寄付を募ったノート(勧進帳)であったことが分かりました。史料3 善光寺如来造立勧進帳

史料3 文永11年善光寺如来造立勧進帳 (PDFファイル)(49KB)を拡大するには,こちらをクリック!

くさいでは漢字で書くと草出となるので,これも草出・くさいづのこと。さぶろう殿ときののりひろという人が合わせて三百文を寄付したんだ。今のお金にして約3万円。文永11年(1274)は,どんな年?

社会不安が続く中,くさいでの人の中にも,金宝寺の阿弥陀さんを造る事業に賛同し,寄付した人がいたのね。このような人々の行いの延長線上に,常福寺五重塔の建立のため,わずかばかりの寄付を積むという人々の動きがあったのよ。

13世紀中頃には,くさいでと鞆の人々が交流していたことが知られます。15世紀後半の草出には津(港)がありました。鞆も著名な港町でした。したがって,くさいでと鞆の間の交流は船を利用することが多かったでしょうね。

史料4は,貞和6年・観応元年・1350年の12月に,周防国の内藤氏が足利直冬に宛てた軍忠状です。足利直冬は,足利尊氏の実子で,後に尊氏の弟の直義の養子になります。この年,尊氏と直義が対立すると,直冬は直義に味方。内藤氏は直冬のもとに馳せ参じたのでした。内藤肥後徳益丸代審覚軍忠状

史料4 貞和6年内藤肥後徳益丸代審覚軍忠状 (PDFファイル)(214KB)を拡大するには,こちらをクリック!

軍忠状とは?史料4を今の言葉に直すと…

足利直冬は,貞和5年(1349)4月頃に備後国鞆にやってくる。その最初から,内藤氏は草津に馳せ参じ,尾道へも付き従ったと記しているよ。このことから,鞆の直冬に味方する軍勢は草津にも集結していたことが分かるよ。

味方の軍勢が草津に駐留している情報が鞆の足利直冬に,また直冬が尾道に移動する情報が草津の軍勢に伝わっている。単に情報が陣営内をスムーズに伝わったということだけでなく,その前提として鞆と草津の間を人やモノや情報が日常的に行き来していたことを示しているのでは?

内藤氏が鞆にいる直冬に対して奉公の忠節をするために馳せ参じた草津とは,鞆に近い津・港と考えられます。草出の人々は,13世紀中頃から鞆と日常的に交流をしていましたし,草出には津もありました。したがって,草津とは草出の津のことと推測されます。

以上のように,草出は多くの人々が住み,集う「まち」だった。このまちは,13世紀後半にはくさいで,14世紀中頃にはくさつ,14世紀末期にはくさいづ草土,15世紀後半には草出の津のように,中世文書に記録されたけど,このほかにも次表のように登場するよ。表

「草戸千軒」について記される中世文書の一覧表 (PDFファイル)(236KB)を拡大するには,クリック!

草出の山側が草土,海側が津・草津なら,表の№4の草井地は草出の市,すなわち草市と推定されるね。草井地と鞆,草津と鞆,草土と鞆の浦のように,草出は鞆と海陸のルートで結ばれていたのよ。

発掘調査された草戸千軒町遺跡は常福寺の東麓に広がる中世の港町の遺跡。草出の津と市の集落の一部が発掘された草戸千軒と思われます。15世紀後半の表の№8を最後に草出という地名は見られなくなります。草出の津と市が衰退して草土だけになってしまったからでしょう。空間構成

 

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