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万福寺(まんぷくじ)遺跡の銅鐸(どうたく)

銅鐸

 この銅鐸は、江戸時代後期(19世紀)に現在の福山市神村(かむら)町で村人によって発見され、福山藩の漢学者によって記録されていたものです。この記録は、銅鐸の拓本(たくほん)2枚と墨(すみ)で書かれた略図3枚で構成され、その内の1枚には、「文化十(1813)年春神村萬福寺(まんぷくじ)故趾之山脚 村人茂右衛門うがち鑿だす出之于土中云云」と書かれています。このことから現在の福山市神村町にあった萬(万)福寺の故趾(跡地)付近から発見されたものと推定され、江戸時代後期に「万福寺谷(まんぷくじだに)」とよばれていた現在の県立松永高等学校の裏山一帯(福山市神村町十区)が、その有力候補地と推定されています。ここは深く湾入(わんにゅう)した松永湾を一望できる見晴しのよい場所で、周辺の沼隈半島や大峰山(おおみねやま)遺跡(尾道市)からは銅剣や銅矛など弥生時代の青銅器も見つかっています。
 拓本や略図によれば、銅鐸は総高31.3cmで、鐸身(たくのみ)を格子目の帯で「田の字形」に区画する「四区袈裟襷文銅鐸(よんくけさだすきもんどうたく)」とよばれるものです。同じ備後の黒川(くろがわ)遺跡(世羅町)のものと大きさや形式がよく似た銅鐸で、これらは近畿地方の播磨(はりま)地方(兵庫県)などで主に製作されたものと考えられています。
 これらのことから、近畿地方で製作された銅鐸が瀬戸内海を通じて備後の万福寺遺跡や黒川遺跡に運び込まれたものとみられます。一方、これらの銅鐸と形式や文様(もんよう)がやや違っている安芸の木ノ宗山(きのむねやま)遺跡(広島市)の銅鐸は、佐賀や福岡など北部九州地方で製作されたものと考えられており、当時の広島県地域は北部九州と近畿からそれぞれ系統の異なる銅鐸が運び込まれた興味深い地域といえます。

(写真 黄葉夕陽文庫 銅鐸の拓本 広島県立歴史博物館蔵)