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被爆証人のかたと

被爆当時の様子を直接お聞きする機会がありました。

 日曜日の朝,開館とほぼ同時に,来館されたある年配の男性から図らずも多くのお話を伺うことができた。昭和2年のお生まれということでちょうど米寿の年に当たる。お年を感じさせない足の運び,目も耳も不自由ないことがすぐに分かった。初めは頼山陽を巡って,竹原の記念館,京都東山区の長楽寺などへも何度も足を運んでいるというお話から,まもなく原爆投下時のお話に発展した。
 当時,彼の働いていた会社は現在大きなホテルの建つ元宇品にあった。その会社から社員160人が天神町(平和公園の南に位置する現在の中島町付近)で仕事を始めたばかりの時に,被爆の瞬間に遭遇した。元宇品にいたこの御老人も原爆投下で爆風を受けたが,幸いひどく負傷することはなかったが,すぐ近くで多くの人が犠牲になるのを目の当たりにした。元宇品は爆心地から一定の距離があるとはいえ,周囲の建物はほとんど瞬時にして破壊された。
 原爆投下のその日,朝9時ごろには天神町で働く社員の確認と救出のため,陸路で爆心地付近へ向かったが,御幸橋まで来たとき陸路での接近を断念した。それほど見渡す限り火の海であった。再び元宇品に引き返し,船に乗り込んで川を遡上して社員が作業していた場所までたどり着いた。生存者を確認することはできなかったが,社員と思われる犠牲者を一人ずつ船に乗せ元宇品の会社まで送るという仕事がその日から何日も続いた。似の島の遺体収容の場所はすぐにいっぱいになっていたため,会社の敷地が安置所になった。会社では社員の家族に遺体の確認をしてもらいつつ,元宇品にあった火葬場が当時は同時に使えるのは二人分しかなかったため,会社の敷地に鉄板で焼き場を作り,多くの遺体を荼毘に付した。
 この御老人自身も昭和25年ごろまでは病弱の状態が続いたが,その後なんとかがんばって今日まで元気で過ごしている。当時の仲間の多くは昭和30年ごろに相次いで他界した。青年期の多感な時期でもあり,多くのことを鮮明に記憶している。これまで新聞社や出版関係の方が体験の聴き取りや事実の確認のために訪ねてきたことがある。また御自身でもその体験を書物にまとめている,ということであった。
 その被爆直後の時期,御老人はこの資料館付近も何度も通りかかった,ということであった。ちょうど玄関に,山陽記念館の被爆直後の写真があったのでそれを紹介することができた。
 伺うほどにもっと掘り下げたい衝動もありつつ,1か月ほど前に初めて訪ねた袋町小学校の資料館のことを話題にしようかと迷いながら,「またおいでください」,と声をかけ見送りしたが,結局,お名前をおたずねし損なったことが気になる。