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広島頼家関係資料

 広島頼家関係資料(通称「杉ノ木資料」)は、広島藩儒である頼春水(1746~1816)の子孫のもとに伝来した資料群です。平成27年に広島県に寄贈され、頼山陽史跡資料館で保管しています。
 広島頼家は、『日本外史』を著した頼山陽(1780~1832)をはじめ、優れた儒学者・文人を輩出した家です。杉ノ木資料の通称は、頼家の屋敷があった「杉ノ木小路(しょうじ)」の地名に由来しており、屋敷の跡地に現在の資料館が建っています。

頼春水肖像の画像頼春水肖像
頼山陽の父春水は、広島藩の儒学者として文教の振興に尽力するとともに、江戸在勤中には昌平黌の講義も担当するなど、当時の日本を代表する朱子学者でした。


 資料の内容は文人等との交流を示す書状類、能書家として知られた広島頼家の遺墨や交遊のある学者文人から贈られた書画類、詩文等の著述稿本類、日常生活に係る日記や公務に関する文書、家計に係る帳簿類等の文書・記録類、多種多様な典籍類、日常生活で用いられた器物類など多岐にわたり、点数は9000点以上に及びます。
 令和6年3月15日、国の文化審議会は文部科学大臣に対し、広島頼家関係資料の内5547点を重要文化財に指定するよう答申しました。
 江戸時代後期から近代に至る学者文人の日常生活と文化活動を今に伝える貴重な資料です。

 

~主な資料~
■(奥)二大字「梅颸」 頼春水書、(手前右)日記 頼春水書、(手前左)日記 頼梅颸書
頼春水と妻静子の日記及び軸
頼春水とその妻・静子(1760~1843、号は梅颸)は日々の生活を日記に記録していました。幼少期の山陽のことや儒学者の家の生活の様子を具体的にうかがえる貴重な資料です。
二大字「梅颸」は頼春水の絶筆。文化13年(1816)2月11日、病床の春水が墨と紙を用意させて揮毫しました。妻へ贈った号で、「颸」はさっと吹く涼しい風を意味します。

 

■「学制草稿」(部分) 頼春水書
学制草稿
広島藩の学問所創設に関する文書を貼り継いだもの。天明2年(1782)に頼春水が一昼夜で書き上げたといわれています。学制の制定にあたり、春水ら朱子学者と古学者との間で激論がありましたが、藩は春水の学制を採用しました。

 

■日記(東行手記)(部分) 頼山陽書
東行手記
寛政9年(1797)、当時18歳の頼山陽が幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)に遊学するため、広島から江戸へ向かう道中の旅日記(絵入り)。

 

​■「憐二頓首シテ謹テ啓ス」(幽居中の陳情) 頼山陽書
(右半分)
頼山陽書状の1

(左半分)
頼山陽書状2
脱藩した罪により幽閉されていた頼山陽が、頼家の執事梶山立斎に宛てて心情を訴えた長文の書状。山陽は「論語」を根本として経書・歴史書などのたくさんの書物を読みたいとして、具体的に書物の名をあげています。また、大都会に出て文章によって名を揚げたいと述べています。​この幽閉されている間に、山陽は後の代表作『日本外史』の草稿を書きました。

 

その他の収蔵品

 頼山陽史跡資料館では、広島頼家関係資料の他にも、頼山陽(1780~1832)とその一族にゆかりのある書画を中心とした所蔵品・寄託品を収蔵しています。
 また、平成7年(1995)の資料館開館以来、一族の竹原頼家(春風館)の資料を保管しています。