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教育講演会20021120「共同生活と人間形成」記録

教育講演会・学校説明会 

 演題  「共同生活と人間形成」
 講師  加茂田信則氏(株式会社前川総合研究所 執行役員)
 日時  平成14年11月20日(水曜日)13時00分~16時00分
 会場  広島県民文化センター 多目的ホール

講演内容

 <はじめに>
 <和敬塾創立の経緯>
 <教育指導方針>
 <現代とのかかわり>
 <共同生活で個(自分)と全体を考える>
 <塾の基本方針と個人の価値観の一体化>
 <共同生活での学び合い>

 <はじめに>

 ただいま紹介いただきました前川製作所の加茂田です。私は教育の専門家ではありませんし,教育を実際にやっているわけでもありませんので,今日ここで皆様に参考になるようなお話ができるかどうかあまり自信がありませんが,紹介いただきましたように,和敬塾という大学生の寮の運営に約10年間携わっておりました。
 その和敬塾のことについてお話したいと思っております。

 和敬塾というのは東京都文京区の目白通りにございまして,寮が4つあります。
 主に地方から東京にある大学に入学した学生が共同生活している場所です。
 現在大学院生を含めて,約440人の学生がここで生活をして大学に通っています。
 通学距離の問題でしょうが,早稲田大学が一番近いので,早稲田の学生を筆頭に慶応,明治,東大その他十数大学の学生が,ここから学校に通っています。

 その和敬塾がどういう場所で,その共同生活というものがどういったものであるかということをお話し,少しでも皆さんの参考になれば幸いだと思っています。

 今日,和敬塾の話をしますと,和敬塾というのは非常に立派なところだと思われると思いますが,人を育てるというようなことは,そういい方法は私の体験からするとあまりないように思います。真剣にぶつかり合う以外に方法はないのではないかと思っております。高邁なことはいろいろと言えますけれども,やはりなかなか思うようにいかないので,七転八倒,いろいろやっているというのが実態であるとお考えいただきたいと思います。

<和敬塾創立の経緯>

 和敬塾の創立の経緯ですが,第2次世界大戦の終わったころに遡りまして,昭和20年8月,日本はご承知のように敗戦という歴史上,経験したことのない大変な事態になったわけです。
 当時日本の国民全体が精神的に混乱しており,その上,物不足というか,食糧不足というか,そういうものに苦しめられて,みんなが毎日の食糧を得るために汲々としていたという時代です。それで日本の伝統的な道義というか,そういう気持ちが全く退廃していた時期があったわけです。当時私は中学3,4年生でした。

 そういう時に,和敬塾を創立しました故前川喜作という方が,「たとえ戦争に敗れても,一切のものを失っても,人間というのは魂を失っちゃあいけないんじゃないか。日本には元々天然資源はなかったんだ。あるのは人的な資源だけじゃないか。日本の将来はこの人的な資源の成長を待つほかないじゃないか。」ということを思い,そのためには,教育というのはただ学問とか知識というのを授けるだけでなくて,広い情操的な教養と豊かな人間性を磨くことが大事であると考えたわけです。
 当時の学校教育の実態は,知識優先でして,戦後の混乱の時期ということもあって,徳育という面にあまり関心がありませんでした。また,徳育ということを何か避けている風潮があったと思います。

 「大学は出たけれど」では困るんだ。「大学を出ただけあって」というような人間になってほしいという切なる願いを持って,それには学校とはまた別に,もう一つの理念を持つ人間教育の場を作らなければならないだろう,という信念から現在のところに共同生活を基盤にして常住実践の人間教育の場として「財団法人和敬塾」を設立したわけです。要するに人材の育成ではなくて,人間的に成長するということを意図した塾です。

<教育指導方針>

 和敬塾の教育指導方針ですが,先程の紹介にもあったように聖徳太子の17条憲法第1条に「和を持って尊しとなす」,「篤く三宝を敬え」ということからくる「和」と「敬」の思想に凝縮されます。
 自分とは違う異質な個性とか性格・人格を持った人をお互いに認め合うという「和」の精神と,小さな,ちっぽけな自分を超える存在,それは人間でもあるし,自然でもあると思いますが,そういう自分を超えた存在を敬う「敬」の精神,これを若いうちに育まなければならない。それには,いろいろ違った個性を持つたくさんの若者が一つ釜の飯を食って,裸のつきあいをするという共同生活が一番ではないかということで和敬塾が建てられたわけです。

 先程話しましたように今,和敬塾には全国から,また海外の留学生もおり,大学も出身も違う大学生が約440人おります。この塾生の指導ということについては,細かい規則はあまりありません。また何か特定の思想とか行動を強制するようなことはもちろんありません。この塾生一人ひとりに自由に人間形成の機会を提供しようという場です。

 ここで,人間形成ということは,塾の共同生活を通していろいろな学生やいろいろな職員,そういう人たちと生活上いろいろな関わりを持つわけですが,時にはけんかもあり,ぶつかり合いもある。そういう中で,自分と違う人格や個性を認めること,また「敬」すなわち自分を超えた存在を敬う心を学ぶこと,これが目的です。

 言い方を変えれば,共同生活において自分と周りの人たちや寮全体との調和を理解する,自分中心的な考え方も必要かもしれませんが,全体から自分を見るということ,自分と全体の調和を理解するということが和敬塾の基本です。

<現代とのかかわり>

 現状の学校教育は,戦後の時代とはまた違った意味で知識に偏り,多かれ少なかれ子どもたちは受験に追われているのが実状ではないかと思います。
 こういう状況の中で,気のあった仲間としか遊ぼうとしないとか,引きこもりであるとか,どうも個性の違う自分とは異質のものとの接触というか,コミュニケーションというか,そういうものを避ける傾向は相変わらずあると思います。
 自分だけの快適さを優先し,求めますけれども,周りのこととか全体のことを考える気持ちといいますか,そういう視点をなくしていると言わざるを得ないのではないかと思います。

 こういう状況ですので,和敬塾のような,またこの寄宿舎を備えた中高一貫教育校のようなたくさんの個性の違う子どもたちが共同で生活をする,共同で学ぶというような施設というのは貴重な存在ではないかと思います。
 「和」と「敬」の精神とか,個と全体の調和ということは,社会の中で人間が人間らしく生きていく上においては一番の基本的な事柄であると思います。

 ところで,日本は産業の近代化というものが戦後大変なスピードで発展しましたが,それは学校教育の普及によるところが大きいといわれており,これは社会一般の通説になっています。しかし,近代の学校教育の特色の一つは,地域社会とか生活の場から教育の場が切り離されたという点だと思います。

 現在,学校は,運動会だとかPTAの活動を通してしか,地域とふれあう機会がなくなってきております。昔のことを言って申し訳ありませんが,昔の農村とか山村,漁村,こういったようなところには若者宿というものがありました。
 若者宿には,12歳ぐらいから20歳ぐらいまでの若者が寝泊まりをして,そこで村の生活の規範というか,そういうものを教えられたわけです。
 その他にも地域共同体を維持していくために必要な不文律というようなものが伝えられたと言われております。そういう若者宿で村の若者たちに伝えられた村の知というか,村落共同体の生活の知恵,これが現在の社会にそのまま通用するとは思いませんが,共同生活というものを通して人間形成をしていこうとしたこの若者宿のシステムには見習うべき点があるのではないかと思います。

 人間は十人十色とよく言われますけれども,違った環境に育って,違った考えを持っているのが本来の人間の姿です。個性や考え方の違うもの同士が一緒に生活をする,一緒に社会を形成していく。そういうことですから,いろいろなことが起きてくると思います。
 時にはけんかもするし,悩んだり,葛藤しながら自分と周りといいますか,子どもと学校とか,家族と家庭とか,そういう自分と周り全体との調和がうまくできるような人間性とか,相互性,お互いの関係性といったようなものを身に付けることが,昔あったこの若者宿の教育の基本であったと思います。

 これは,どうしても一緒に生活しなければ伝えられないものがあるというふうに信じられていたからで,一緒に生活することによって言葉では伝えきれない何かを伝えようとしたわけです。
 気持ちが通ずるといったようなことが一つの大きな要素になっていたと思います。

 こういうものが,日本の歴史や文化・風土の中に教育の仕組みとして、人間形成の仕組みとしてあったということを,振り返って,よく考えてみることも無駄ではないと思います。

 少しここで,目を和敬塾から社会に転じて,都市への人口の集中ということについて考えてみたいと思います。
 これは,都市社会がどういうふうになっていくんだろうかということになると思いますが,このことはある本に書いてあったことですが,第2次世界大戦が終わった頃,日本では人口の5分の3が田舎で農業をやっておりました。
 昔の田舎社会には,一人ひとりの人間にとって地域共同体といいますか,コミュニティの存在というのは議論する余地のない当然の事実として存在していました。そもそもこの地域共同体の中でみんな生まれてきたわけで,家族にしても村にしても生活共同体は生まれる前から現としてそこにあったわけです。

 しかも昔は人の移動はあまりありませんでした。今日では,日本に限らず先進国はどこの国も,都市に人口が移動しております。田舎の人口がどんどん減少しているということです。途上国でも都市への人口集中が急速に進んでおります。
 中国でいえば,中国の沿岸地域への人口の集中,それによって内陸との生活レベルの格差が大きく開いているというようなことをよく見聞きします。

 よく考えてみると,人類が農業とか牧畜とかをやりながら定住したという時代から約1万年になるといわれております。しかしこの人口の都市への集中というのは,高々この1世紀,約100年の間に起きた事態です。まあ日本であえていえば,戦後の5,60年の間に起きたと言ってもいいかもしれません。

 この田舎社会の村落共同体というものには,その特質としまして強制というか,束縛ということが,ある面でありました。
 これは地域の共同体というものを全体として維持していくために必要だったわけですが,その強制とか,束縛は自己犠牲とか我慢するということに通ずるわけですが,それから人間を解放したのが都市社会であったわけです。そこに魅力があったわけで,都市にどんどん出てきた理由はそれだと思います。
 しかし,都市に人口がどんどん流入して,これは史上例のないことであるというだけではなくて,どこの国でも都市は多くの問題をかかえることになって,なかなかうまくいっておりません。

 どうしてかといいますと,人間の新しい生活環境となった都市社会の中に,昔の田舎社会にあった生活の共同体という地域共同体に相当するような新しいコミュニティというものを我々がまだ持つことができていないというところに問題の原因があると思います。
 昔と同じコミュニティではなくて,やはり都市社会の実状にあった新しいコミュニティを我々がまだ作り出せていないという点に問題があるのではないかと思います。

 本来人間というのは「群れる」という習性を持っています。また安心とか安全とかというようなことを求めています。
 やはり人間はコミュニティ,共同体というものを必要としています。人間の集団が建設的な目的を持つコミュニティを持てない時に問題が発生してきています。
 国内,国際社会でいろいろ起きている犯罪,紛争,そういうものを見ても分かるとおり,コミュニティ,いわゆる個と全体の調和ということを実現できなかったために,いろいろな破滅的な結果が出ているといわざるを得ないと思います。

 ですから,今日我々に課せられた大きな課題というのは,今まで存在しなかった都市社会のコミュニティを創造することではないかと思います。
 それはかつての田舎社会のコミュニティとは違って,もっと我々にとって自由で,もっと任意なものでなければなりませんし,また都市社会に住む一人ひとりの人間にとって自己実現や社会貢献という機会が得られて,一人ひとりが意味のある存在として生活をしていけるようなものでなければならないわけです。しかし,そういうコミュニティをまだ我々として都市社会に作り得ていないということが大きな問題だと思います。

 どうしてこういう話をしたかといいますと,そういうことを発想していく基盤となる理念が私は「和」と「敬」の精神,異質なものを認める,認め合う,自分を超えた,ちっぽけな自分以上のものを敬うという精神,それから今申し上げた「自分」と「周り」というか,周囲というか,全体との調和を理解するという心を持つことが原点になるのではないかと思っています。

<共同生活で個(自分)と全体を考える>

 個と全体というふうに抽象的に言っておりますが,これをもっと具体的にいいますと,家庭と一人ひとりの家族とか,学校と一人ひとりの生徒とか,町と住民とか,自然環境と住民,国と国民とか,国際社会と日本とか,国際社会と広島とか,人類と民族とか,そこには宗教というものも関わってくると思いますが,個と全体の問題がこれほど大きくクローズアップされている時はないだろうと思います。

 家庭においても,学校においても,町においても,自然環境においても,国,国際社会,民族,そういったようなところで,いろいろな犯罪なり,葛藤なり,紛争というのが起きております。これはやはり個と全体の調和がなかなか思うようにいかなくなってきたところに原因があります。
 この自分を中心にした,「ジコチュウ」といいますか,自分を中心にした見方とか考え方そういうものが全く必要ないとはいいませんが,自分が生きているというか,生かされている場所とか,環境とか集団とか組織という場所を中心にして,場所から自分を見るという考え方,この方が自己中心よりも,重要になってきたのではないかと思います。そのバランスが崩れている時代だろうと思います。

 自分には都合がよいけれども,周りとか全体にとって思わしくないようなことは長続きしませんし,成り立っていきません。
 自分も全体も両方ともうまく成り立っていくということの中には,自己犠牲とか倫理性とか,相互補助,お互いに助け合うという心が働かなければならないのは当然ではないかと思います。

 そういう意味からも,今,私たちに求められている課題というのは,やはり異質なものを受け入れて,お互いに納得できる新しい関係とか,新しい集団とか,新しいものを作り出していくことだと思います。

 なるべく少年時代の早い時期に,そういう精神を育む必要があると思います。そのためには学校とか寮での共同生活を通してお互いにぶつかり合ったり,けんかをしたり,悩んだり,そういうことを体験しながら人間的に成長するという場を作っていく必要があると思います。

 そして,他の人に対する理解を深めていかなければ問題は解決しないだろうと思います。
 このことがどうしても社会で人間が生きていくための基本だと,それが基本になってこないといろいろな問題が解決しないのではないかと思います。
 これは社会に出てからでは遅いわけで,やはり10代から20歳位までの間の時期が一番大切な時期ではないかと思います。

<塾の基本方針と個人の価値観の一体化>

 もう一度和敬塾のことにかえりたいと思いますが,和敬塾の基本的な方針と入寮している学生の価値観をどうやって一体化していくか。この一体化が和敬塾では大きな課題です。

 学生一人ひとりに自立した個人として自分なりの価値観,人生観が求められるのと同じように,和敬塾にも和敬塾自体の価値観,文化,伝統を創造していく能力が求められるのは当然で,そういうものを持っていなければならないわけです。

 特に最近のように世の中に情報が非常に氾濫しており,その上,人を惑わすように大変複雑に錯綜して流れてきます。
 そういうものを受け止めている側の和敬塾にしっかりした方向性や方針がないと,すぐに混乱してしまいます。塾生とか職員,この人たちの信条とか人生観,価値観,塾自身の方向性というものまで社会風潮に押し流されてしまっては,とても理念を持った塾などは運営していけません。

 塾生とか,職員たちの信条とか人生観,価値観と和敬塾の「和」と「敬」とか,個と全体の調和という基本的な方針をどうやってうまく一体化させていくかという課題を和敬塾は追い続けていかなければならないわけです。
 全てが解決するというわけにはいきませんが,そのために和敬塾として心がけていることがいくつかございます。

対話の総合化

 先ず対話を十分やっていこうということがその一つです。
 一般的に不信感が沸いたり,不安になったり,疑問に思ったり,何か期待をしたりといったような心情に対しては,よく話し合う,対話をするというのが一番の切り札になると思います。
 要するにこちらから一方的に話すのではなく,よく聞くということが一番重要だと思います。よく聞いて,話し合うということが解決の方法になると思います。雑談でもいいですから,言葉のやりとりというものを,そういう機会を多く持つようにすることが大事であり,それを心がけています。

決定参加の進め

 それから,もう一つは物事の決定に参加すること。
 だいたい人間というのは自分でやって見せるとか,自分の能力を表現する時に満足感を覚えます。寮で生活する中で自分を主張させるということを大切にしています。
 先ず檜舞台で発言させたり,物事を決定させたり,そういう決定への参加というのが,その人の意欲を刺激することは間違いありません。
 自分で企画し,決定するという機会を取り上げてしまいますと,学生はどんどん意欲を失くしていき,学習しようということが停滞して,向上心がなくなっていきます。各学生が自分で物事を決める機会,物事を決める能力を持つこと,そういう能力をうまく持たせることが進歩・向上の意欲を促すことになると思います。

認めることの充実

 どうも日本人はほめることが下手ではないかと私は思います。自分のやったことに人間は関心を持ちますし,その結果がどうだったのか,成功だったのか失敗だったのか,また喜んでくれたのかということが気になります。
 人間のやろうとする意欲を刺激するのに,自分で決定することのほかに認めるとか,ほめるということがあげられると思いますが,我々はもっと認めることの充実というか,うまくそういうことをやっていく必要があると思います。
 こういうことを通して言われたことをやるという受動的な人間ではなくて,自主的に主体的に行動する人間になってほしいということを願っているわけです。

<共同生活での学び合い>

人間的ぶつかり合いの中での生活

 和敬塾というところは,日本の文化・風土の中で共同生活をして,数多くの多様な人間と交流し,その中でいろいろなことに気づいていくということを通して自分というものを認識したり,自分と全体ということの関係で自分がどうしていったらいいかを認識したりして,人間的に成長していこうとしている,あるいは願っている共同生活の場所です。
 ここには学生だけでなく,職員もおります。寮長もおりますし,副寮長もおります。寮母もおります。そういう人たち全員が協力をして,塾の共同生活の営みの中で起きてくる人間同士の具体的な関わり合いとか,ぶつかり合い,そういう体験からどうしたらいいかということを学生だけでなく,関係する全員で考えていこうという姿勢を貫いています。

 あくまでも和敬塾というところは,人間の集団において日本の若者たちが生き方を求めていく場所で,その人間の集団における個人の生き方,すなわち個と全体の調和を理解するということは日本だけに通用することではなくて,これは国際的に見ても,大変普遍性の高いものではないかというふうに思っております。

 そういうことで和敬塾においては,学生も寮内の班も,学生委員会組織もあります。寮や塾の運営組織もあります。
 催しごとや行事,講座,そういう文化,教養,スポーツの集まりなど全てが共同生活と人間の関わり合い,交流を十分機能させ,それをまた深めていくものであり,そのためにやっているということを明確に位置づけています。

 和敬塾で学び合うことは,一人ひとりが和敬塾の一員として,自分を含めた和敬塾全体の機能,それは共同生活を通して人間的に成長を図ろうということですが,その機能を各学生が十分生かすことができる人間になってもらうことがねらいです。
 一人ひとりが自分を含めた和敬塾全体がねらっていることをうまく活用して自分も成長していく,つまり和敬塾がうまく機能するというか,和敬塾の人間形成というのがうまく機能するということは,一人ひとりの学生が成長するということと同一であるというふうに考えております。そうでなければ全体としてうまくいかないであろうと考えています。
 そういうものが共同体,コミュニティというものであってそういう共同体を和敬塾は理想としています。

 少し難しい話になるかもしれませんが,一人ひとりが和敬塾全体の部分なのです。和敬塾とは別のものではないわけです。
 和敬塾全体の学生,職員が和敬塾全体の部分であって,部分があるから全体がある。その部分と全体は同じことを意図して協力しあっている。そういう状況を我々はコミュニティ,共同体と言っているわけです。
 和敬塾は,全体との調和を理解し,それぞれに生きている,また生かされているということを感じることができる共同生活を大切にしているところです。

 人間的な成長ということを考えた場合,教えるということがうまく機能するためには,教える側と教えられる側の間に気持ちが通じるという言い方もあると思いますが,人間的交流がなければなかなか思うようにいかないと思います。
 教えるということは,同時に学ぶということになると思います。この両方は全く切り離すことのできない相互的な働きではないかと思います。
 教えるとか,学ぶということが一つに溶け合った学び合い,これが十分効果を上げるためには,やはり人間的な,双方に人間的な交流を広げて,気持ちが通じ合い,それが深まるような方向にもっていくしかないだろうと思っています。

 最近の教育というのは,やはり知識というものに偏って,何か競争に駆り立てていくような一面を持っています。ともすれば全体のことはともかく,自分さえよければいいというような自己中心的な意識を持つような傾向,風潮にありますけれども,共同生活を基盤にした和敬塾であるとか,今度こちらでやろうとしているような教育というのは,これとは非常に対照的なものではないかと思います。

 一番最初に申し上げましたけれども,人材を教育するということの前に人間的成長を図るということの方が優先するということを言いたいわけです。中学・高校という受験時代は,受験競争といわれるように同学年の学生は,場合によっては競争相手というようなことが言えるかもしれません。
 しかし,共同生活をベースにした人間的な関わり合いを通してお互いに成長していこうということは,お互いに成長していこうということを考えている仲間になるわけです。この知識というのは一人でも身に付けることができるだろうと思いますけれども,こういう人間的な成長というのは一人ではなかなかできません。
 やはり,人との関わり合いの中で自分を犠牲にすることも考えなければなりません。倫理的なことも考えなければならない,相互補助と,お互いに助け合おうという心をお互いに働かせなかければならないというようなせっぱ詰まった体験を通して初めて人間は人間的に成長していくものであると思います。

共同生活に必要なモラル

 学生が寝起きする場所として,寮の他にアパートとか下宿があります。
 アパートというのは,一棟の建物の内部がたくさんの住居に仕切られた集合住宅です。
 寮というのは,共同で生活を営む宿舎であって,独立して生活を営む住居の集合体であるアパートとは全く違います。寮には,洗面とかトイレ,お風呂,食堂,図書室,その他にいろいろと共同で利用する施設・設備がたくさんあります。
 また,寮というのは学生だけでなくて,寮長から職員,そういういろいろな人たちが関わり合って協力して生活する場所です。

 寮生活というのは,そういう集合住宅とは違う,そこで完結しない,みんなで共同してやっていく,共同で使用するといったようなものを前提にしているということを忘れてしまうと,共同生活というのは成り立ちません。
 自分の都合のいいこと,自分の都合だけを考えて,他の人の都合とか自由を無視してしまっては,共同生活の秩序というのは保てないと思います。

 こういうことを防止するためには一定の歯止めが必要で,それが共同生活の約束事です。
 共同の施設は,そこで生活をしている人全員にとって便利で使いやすく,きれいで安心できるというような状態を保持していくことが寮の生活の在り方の先ず第一歩となります。
 それにはやっぱり必要な約束事とかモラルというものを各自が守ること,それ以外にいい方法がございません。

 この約束事というのは,我々が考えているのは,生活する全員の便利・自由,安心・安全のためのもので,基本的には,学生の人間性の弱さとでもいいますか,そういうものを補うために自分を強く鍛えていく手助けをするという役割を持って作られているということを全員が理解していなければいけないだろうと思います。
 これは,罰するための規則ではなくて,変な気持ちを起こすのを思いとどまらせるということ,そういう気持ちを働かせてもらおうという意図のもとに作られていると考えております。

塾生も職員もともに人間形成

 共同で生活するということは学生同士はもちろん,職員も副寮長も寮長も寮母も全員それぞれに役割を持っていて,何らかの関わり合いを持つということになります。
 そういう関わり合いを通してお互いの持っている知識とか経験,考え方が行き交うことになります。そこにお互いに新しい体験があって,また,新しいことに気がついたり,新しい発見があります。お互いにそのことを通して集団における自分というものを再認識するということになります。

 こういう交わりが深くなってくればくるほど,人間的にも豊かな生活の場に寮はなってくると思います。
 この共同生活による人間形成というのは,学生に対することだというふうに考えられがちですけれど,そうではなくて職員も寮長も副寮長も寮母も含めた全員のものであるというふうに考えておりまして,寮生は寮生らしく,副寮長は副寮長らしく,寮長は寮長らしく,みんなそれぞれに生き生きとしていると同時に周りから生かされていると感じるような共同生活が実現するよう願っているわけです。

 和敬塾は,寮生はもちろん,職員も寮長もみんな未完成で不完全な人間であるという前提に立っています。
 不完全な人間が同じ不完全な寮生を管理する,そういうこと自体おかしいわけですが,寮長・副寮長が権限とか権力とか強制によって,寮生をひっぱっていくということはできないことはありません。
 しかし,相手が納得してついてきてくれるというか,自発的に動いてくれるのでなかったら,結果は満足したものにはならないと思います。
 権力と強制というものによる管理ではなくて,全員が不完全な人間なんだという前提,原点にたって,寮長が,「私が寮生を見る」というのではなくて,「寮生も私を見ている」というような人間成長の場における真理を会得するというのが一番肝心なことです。

 和敬塾はこういう学び合うということの心を忘れてはならないと思ってやっているわけですが,一番最初に申し上げましたようになかなか人を育てることは難しい。私は人は育つものであって育てることはできない,人が育つ環境は作れるけれども,育てることは難しいと考えていまして,和敬塾においても,育つ環境をなるべく作っていこうということに努めているわけです。

 和敬塾がうまくいっているわけではなくて,なかなか思うようにはいかないためにいろいろ苦労し努力していると受け取ってもらえればありがたいと思います。

 全体から自分を見る視点ということを何回か言いましたが,全体から見る視点,そこからの発想,これは現在,情報がたくさん流れるとか,それから昔でしたら田舎社会で人があまり移動しませんでした。ところが今はどんどん移動する,情報は入ってくる。経済・文化の交流はある。そういう時代になってきて,自分に影響する全体と周囲というのがものすごく大きくなってきたと同時に,瞬時に情報が入ってくると同様にまた瞬時に変わっていくという状況の世の中になってきていると思います。
 そういう面でも本当に自分中心ではなくてもっと全体から見るという視点というのが一般的な社会においても非常に重要になってきた,このようなことの方が自分中心の考えよりも重要になってきているということを申し上げて終わりにさせていただきます。

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