【解説】
慶長12年(1607)から文化8年(1811)に至る朝鮮通信使の来朝は,総人員400~500名にのぼり,幕府をはじめ沿路の大名は,接待警固に全力を尽くした。通信使は瀬戸内海を船で往復し,蒲刈島の三ノ瀬には,たいてい船を寄せて一泊した。その接待は浅野藩で,供応の豪勢なことは驚くばかりであった。
通信使の宿館は上の御茶屋であったが,下の御茶屋と本陣もあわせて使われた。信使来朝の停止後は,まもなく御茶屋は壊されたとみえ,文化年間(1804~1818)には,屋敷跡の石垣を残すばかりとなった。現在は,上の御茶屋に達する折れまがりの路地と石段が残るのみである。
名称 | 三ノ瀬朝鮮信使宿館跡 | |
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よみがな | さんのせちょうせんしんししゅくかんあと | |
指定 | 県指定 | |
種別 | 史跡 | |
種類 | ||
所在地 | 呉市下蒲刈町 | |
員数 | ||
指定年月日 | 昭和15年2月23日 | |
構造形式 | ||
法量 | ||
公開状況 | 常時公開 | |
交通案内 | ○JR「呉駅」,「広駅」から「蒲刈行」バスで「三之瀬」下車,北へ約300m | |
関連施設 | 名称 | |
開館時間 | ||
休館日 | ||
入館料 | ||
所在地 | ||
電話番号 | ||
交通案内 |