昭和53(1978)年、デビュー作『もう頬づえはつかない』が一大センセーションを巻き起こす。作家として好調なスタート。しかし本人は「あれは社会現象。文学として評価されたのとはちょっと違う」と冷めた視点だ。
結婚であっさり東京を離れ、広島へやってきた。「広島は静かだから、ここなら自分の道が模索できるかなと思って」。7年くらい前からやっと広島の人間が書けるようになった。呉や宮島、中国山地を舞台にした小説も書いている。原爆に代表されるステレオタイプの広島ではなく、現代の息遣いを描く。「広島は、私の郷里の札幌と違って四季を明確に感じ取れる街。これは文学にとって財産だと思う」。恵まれた風土は気候だけでなく、古い歴史についても同様で、県史をひもといて、浅野藩や頼山陽の歴史にも興味を示す。これらを小説の題材にしたいという意欲もある。「こういうのは地方に住む者の特権でしょう」。
デビュー以来出版した本は6冊だが、歳月は20年が流れた。「これからは基本に帰って、作家ではなく小説家と胸を張って言えるようになりたい」と気持ちを新たにしている。
児童文学は子どもの読み物である─。そう考えるのは性急な大人たちだろう。本当に価値のある文学は、10歳で読んでも50歳で読んでも鑑賞に耐え得る。「児童文学だからといって限られた語彙しか使わないのでは、おもしろい作品ができない。多少分からなくても、私は自分の思いの丈をつづりたい」。大切なのは子どもの頭にではなく、ハートに向けて語ること。「世の中には文章がつたなくても心を打つものはたくさんあるでしょう」。そこには芸術的完成度よりもっと大切な感動がある。
少年時代を戦災児育成所で過ごした。大人になって職業を転々としながらも文学へのあこがれは捨てきれず、習作に励む。子どものころの思い出を文章にしようと思ったとき、筆は自然に児童文学へ向いた。
自叙伝的作品『青葉学園物語』はシリーズ5冊を数えるベストセラーになった。「初期の作品には確かに熱気がみなぎっている。今は綿に水が染み込むような、じっくりと人を感動させる作品を書きたいと思う。しかし、感動はたくらんでできるものではないから難しい」と笑う。事実を乗り越えた虚構世界での真実性を求め、いわく「非常に住みやすい街」広島で、生涯、児童文学を書き続けるつもりだ。
昭和20(1945)年、熊本陸軍幼年学校に入校して戦争を体験した。 「終戦と同時に私の中で言葉がどんどん死んでいった。言葉がなくなるということは、生き方が分からなくなるということ。その回復のために私は文学青年になったのかもしれない」。
だから野心も計算もない。直木賞、芥川賞の両方で候補に挙がっても広島を離れようとはしなかった。東京へ出ることをしきりに勧めた編集者が、「あなたは本当の文学がやりたいんですね」と思わずつぶやくほどだった。
昭和28(1953)年の原爆文学論争では、鋭い発言で注目を浴びた。「原爆は天災ではなく、人為的なもの。そして人間の営みはすべて文学になる。だから原爆も文学になる」。今までの作家人生を原爆に拘泥してきたわけではないが、それも含めて広島には自分自身が生きてきた軌跡と、そこで培われた思想があった。
「結論的にいって、広島は宝の山なのです。小説の材料になるものがごろごろと転がっているのです」(『夏の刻印』あとがきから)
だから広島に腰を据え、文学活動を続ける。「私にとって東京はむしろ異郷」と柔和な笑顔が揺れる。現在「断片小説」と自称して超短編小説を執筆中。50編くらい書いてライフワークにする予定である。
![]() |
| センター文芸資料部門の開設準備を進める 佐々木暁美さん(左)と山本あゆみさん(右) |
![]() |
山代巴(やましろ・ともえ)…大正元(1912)年、芦品郡栗生村(現・府中市栗柄町)に生まれる。昭和4(1929)年、東京女子美術専門学校(現・女子美術大学)に入学しプロレタリア美術に触れる。その後、文芸運動にかかわり、中国山地の農村に生きる女性像を描いた代表作『荷車の歌』などを発表。戦後民主主義や、女性サークルを組織して自己表現力を向上できる場をもつなど、女性運動のさきがけとして現在でも活躍中。 |

特集 広島と文学|お好みアツアツトーク|まち行きむら行き|